the doorsのジム・モリソンがブライアンが亡くなったときに捧げた詩があるというので、調べてみました。
その詩がおさめられている詩集がコチラ
「Wilderness: The Lost Writings of Jim Morrison」
Wilderness: The Lost Writings of Jim Morrison (Lost Writings of Jim Morrison, 1)
コンテンツ
The Doorsの映画
私がジム・モリソンを知ったのは映画でした。
ビデオに撮ったものが残っていたので(整理しなくてよかった!)、テレビで観ただけなのかもしれません。(記憶が曖昧;)
監督・脚本はオリバー・ストーン。
ジム・モリソン役はヴァル・キルマー(トップ・ガンでトム・クルーズのライバル役)、恋人のパメラはメグ・ライアンが演じました。
その映画のトレイラーはコチラ↓
あまりジム・モリソンのことは詳しくないのですが、ヴァル・キルマーはがんばっていたように思えました。ジム・モリソンに似ていますよね。晩年の体型が変わってしまったジム・モリソンも。ファンの方から見たら、違うのかもしれませんけど……。
実際のジム・モリソンと恋人のパメラ・コーソン
体型が変わって、ヒゲも生やしたジム・モリソン
映画には、ニコ、アンディ・ウォーホル、イーディー・セジウィックなども出てきました。
ブライアンの記事を書こうとすると、同じ人たちが登場してくることが多いです。ここにも、つながりがあったのか!と驚くことも少なくありません。
ニコはブライアンともジム・モリソンともつきあったという女性です。ニコとジム・モリソンのエピソードについては、以前、書いています。
「ブライアンとニコ(nico) part3」
「ブライアンとニコ(nico) part4」
上記のブログに書きましたが、ニコはジム・モリソンについて、
「ジムはブライアン・ジョーンズとミック・ジャガーを一緒にしたみたいだった。でも本当はコブラだったのよ」
と言っています。
また、ブライアンとジム・モリソンを比べて、
「ブライアンは作曲家というよりはミュージシャン的で、ジムはもっと詩人的だと思う」
と言っています。
さすがニコ。言い当てていると思います。
ブライアンは曲作りをするというより音を扱う人(演奏する人)だったように思うし、ジム・モリソンはミュージシャンというより、基本は詩人だったように思えます。
イーディ・セジウィックについても、以前、書いていますね。↓
「イーディとウォーホルと、いきなりブライアン」
「ファクトリー・ガール」
エド・サリバンショー出演時のストーンズとドアーズの違い
映画にはストーンズの名前も出てきました。
エド・サリバンショーで、歌詞の一部を変えるようにと言われた場面で。
「ストーンズも変えたんだから」
というような流れで。ストーンズは一応、言われた通りに変えましたが、ジム・モリソンは本番で、変えずにそのまま歌いました。
ストーンズは「Let’s Spend the Night Together」の歌詞を”Let’s Spend some time Together”と変えて演奏させられました。
その時の映像がコチラ↓
あと、この曲については、空耳なのですが、ミックが「ビビんな!」ってシャウトしているところがあるんですねー。個人的にちょっとツボ^.^
(以前、このブログでも書いているのですが)
今回の映像だと、2:09のところです。
(正確には”baby now”なんですけどね~)
で、その後、2:18で”time”と変えさせられた歌詞を思いきり歌うミックの表情、良いですね~^▽^
そして、曲が終わって、パッと立ち上がってお辞儀するブライアン、良いですね~。実にお利口、というの? イギリス紳士っていうの? とにかく良いですね~♡
次に、ドアーズが「ハートに火をつけて(Light My Fire)」をエド・サリバンショーで歌ったときの映像です。
「CBSとしては、”ハイヤー”という言葉はまずいので、歌詞を変更してくれ」と頼まれて、リハーサルでは要望にこたえていたそうなのですが。
”ハイヤー”……「ガール、俺たちはこれ以上ハイになれやしないんだ(Girl we couldn’t get much higher)」というところを、「Girl we couldn’t get much better」にという要望。
観てください~。ひと際、強調して”ハイヤー”してます。
この2つのバンドの対応の違い、どのような意見が多いのでしょうね。
エド・サリバンショーがアメリカの番組であり、ストーンズはイギリスのバンド、ドアーズはアメリカのバンドというところも関係しているのでしょうか?
ん~、個人的意見としては、歌詞を変えさせるというのはアーティストに対して、とても失礼なことだと思います。
曲は表現者にとって作品なわけですから。
でも、「そんなことを強要してくるのなら、そんな番組出ないよ」という選択もあります。
当時、エド・サリバンショーというのは人気番組であって、番組としてのポリシーもあって、視聴者に対する責任もあったのでしょう。
日本には「郷に入っては郷に従え」ということわざがあるので、その場の常識に従うことをしたほうが良いともいえます。
ん~、どうなんだろう。私にはどちらの対応が正しかったということは言えません。それぞれの考え方もあると思うので。
のちに「そんなエピソードもあったね」って笑って話せるようになればいいのではないかとは思います。そういった意味では、両方ともこうして映像に残っているので、その時のアクシデントだけで終わったのではなくて、のちの時代にも影響を与えたということですよね。
ただ個人的好みとしては、ストーンズの対応が好きです。エンターテイメントの世界に合わせた大人の対応っていう気がして。
「歌詞を変えさせるなんてひどいな!」っていう反応はファンに任せておけばいい。1度、歌詞を変えさせられたからって、その曲の持っている力が落ちるわけではないと思うので。
エンターテイメント的な発想かもしれませんが、それだってネタにしてしまえばいいんです。誰も傷つかなくて済むように。
ジム・モリソンをもっと知るため本を読む
もう少しジム・モリソンを知るために本を読んでみました。
ジェームズ・ダグラス・モリソン(James Douglas Morrison)、1943年12月8日、アメリカ・フロリダ州メルボルン生まれ。弟と妹がいる。父親はアメリカ海軍の軍人。
モリソン一家は引っ越しが多かったためジム・モリソンは、
良い面としては、ぐずぐずせずに友人をつくるコツを学ばねばならなかったということがある。しかし、その悪い面として、彼は友達とあまり親しくなりすぎないコツも学ぶことになった。自己主張を控え、心のなかに引き籠り、そして本という隠れ家に暮らすことを好んだ。
高校を卒業したジム・モリソンは、両親によりフロリダ州にあるセント・ピータースバーグ・ジュニア・カレッジに進学させられる。1年在学した後、フロリダ州立大に転籍、1964年には両親の反対を押し切り、UCLAの映画科に編入する。父親のスティーブは息子を勘当した。
UCLAでジム・モリソンは映画と詩に没頭した。
後にドアーズのメンバーにもなるレイ・マンザレクはジム・モリソンの第一印象を次のように語っている。
「僕と初めて会ったときのジムは堂々としてて、魅力的で、じつにスマートなやつだった。知的で面白く、とても茶目っけがあって、すごいユーモアの持ち主だと思ったな。じつに頭のいいやつだったよ」
ところが、ある日突然UCLAに現れ、数年後にアルコール中毒とドラッグ乱用で命を落とすフェリックスという人物と出会うことによって、酒にもタバコにもノータッチだったジム・モリソンは豹変したという。
「酒は飲むわ煙草は吸うわ、まるで何かに取り憑かれた人間みたいにね。そして、予言者みたいな振る舞いをするようになっていた。」
UCLA卒業後の1965年夏、ヴェニス・ビーチでジム・モリソンとレイ・マンザレクは再会する。ジムがつくったという詩を聞いてレイ・マンザレクは「一緒にバンドを作ろう」と提案。
レイが「きみが歌うべき」と主張し、ジムはレイともに詩を作り、声の特訓を受けた。
オリバー・ストーンの映画でも、ジムは年中、アルコールを飲んでいます。正気なときがあったのかというくらい。
この本でも、そのことに触れています。なぜ、まわりは彼に酒を止めさせようとしなかったのか?
メンバーのジョン・デンズモアの発言。初めのうちはみんな兄弟のようだったという。
「ジムとコミュニケートすることは日に日に難しくなっていった。音楽的にはいつだってオーケイだった。でも、何をやってるかについて話しあうことなんてほとんどなかった。それは本能的なものだった。つらかったのは、友人が自らダメになっていくのを見ながらそれを止めることができなかったってことだ。
(中略)
もし彼と対決してやろうって人間がもっといたら、すぐれたアルバムの数は減っていたかもしれないが、きっと彼はまだ生きていただろうね」
ドアーズのアルバム・プロデューサーだったポール・ロスチャイルドは、この発言を否定する。「みんな、彼を止めようとした」と。
「プロまで雇ってそうしようとしたんだ。でも、ジムと知りあって10秒もすれば、ひとつのことに気づくだろうよ。この男は止められない、と。
(中略)
彼が心底惚れ抜いた女だって彼のことは止められんだろうよ、一瞬でもな」
1967年12月9日、コネチカット州ニュー・ヘイヴンでのジム・モリソン逮捕劇が起きる。罪名は「治安紊乱、逮捕への抵抗、公然わいせつ罪」。翌朝には不当逮捕に抗議の声があがり、マネージャーのシドンズがショーの収益から1500ドルを保釈金として支払い、午前2時には拘置所から釈放された。
1969年3月1日のマイアミでのショーの振る舞いについて、また逮捕されることになる。
下記は、ある情報提供者からFBIに提出された報告書だそうだ。
報告書:主要都市における人種絡みの暴力の可能性について 1969年3月3日作成
(前略)
ショーは約1時間つづいたが、その間彼が歌ったのは一曲のみ、残りは刺激的な言葉を吐きながら、うめいたり、うなったり、腰を回して聴衆の興奮をあおった。彼はまた卑猥な言葉をわめき、性器を露出した。
(後略)
ジム・モリソンが攻撃されたことも確かだが、その原因を作っていたのは彼自身だった。
同年12月、ジム・モリソンは26歳になった。
誕生日翌日、メンバーとマネージャーがオフィスに入っていくと、ビールを飲んで考え込んでいたジムが顔を上げ呟いた。
「なんだか、ノイローゼになりそうだ」
決して弱音を吐かないジム・モリソンの発言に、みな言葉を失ってしまったという。
27歳、水、7月3日、という共通点
ブライアンとジム・モリソンには共通点があります。
ブライアンとジム・モリソンは2人とも27歳で、2人とも水の中で亡くなりました。そして2人とも7月3日が命日です。
ブライアンは1969年7月3日、自宅プールで発見されました。
ジム・モリソンは1971年7月3日、自宅のバスタブで発見されました。
ブライアンは冷たい水を好まなかったそうなので、ぬるま湯みたいな水というところも共通していたのかもしれません。
ジム・モリソンの最後のステージはニューオーリンズ。1970年12月12日。
レイ・マンザレクの証言。
「あそこにいたものはひとり残らずそれを見たはずだ。ジムはコンサートの半ばで力尽きたんだ。マイクにすがりついたが、マイクは彼の手をすべり抜けた。私にはそれが彼から離れるところが実際に見えた。
(中略)
初めて会ったときは、エネルギーと生命と力と可能性と知識にあふれていたジムだが、すべてが終わったときにはぼろきれのように消耗し尽くしていた」
1971年7月2日、恋人のパメラとパリに移り住んでいたジムは、夜中にせき込み、胸が痛いと言って風呂に入り、翌7月3日朝5時にパメラが目を覚まし、浴室に行って浴槽で亡くなっているジムを発見。
パメラはジムの死後、うつ状態になり、1974年、やはり27歳で亡くなった。死因はヘロインの過剰摂取といわれている。
ジム・モリソンは実はまだ生きているという生存説もあるようですが、パメラのその後の状態を知ると、それはあり得ないように思えます。
マリアンヌ・フェイスフルが「ザ・ドアーズのジム・モリソンに致死量に至る薬物を融通した人物を知っていると明らかにしている」という、こんな記事もあります↓
https://rockinon.com/news/detail/107383
27歳で亡くなるミュージシャン、アーティストがブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスと相次いだため、27クラブというジンクスになったようです。
27クラブの創立メンバー?と言われているロバート・ジョンソンについては、以前のコチラの記事で少し触れています。
「ブライアンゆかりの曲たちCD」
しかし7月3日が命日ということでは、トム・キーロックもそうなんです。ブライアンが亡くなる前に接していて、なにか事情を知っているのではと思われていた人物。
ブライアンが亡くなってからちょうど40年後に亡くなっています。
「トム・キーロック、逝去」
スパニッシュ・トニー?
こちらの本に載っていたことで気になることを、もうひとつだけ。
バンドは大事をとってボディガードを雇うことにした。トニー・ファンチェスである。元フットボール選手で、ストーンズのこの前のツアーで、ミック・ジャガーのボディガードを務めた190センチの大男、ファンチェスの主な役目は、モリソンをバーともめごとから遠ざけておくことだったが、これはそうたやすい仕事ではなかった。
この「トニー・ファンチェス」というのは、ストーンズの暴露本を書いたりもした「トニー・サンチェス」のことでしょうか?
調べてみたら、もしかして2000年に亡くなっている? え~っTT
https://en.wikipedia.org/wiki/Tony_Sanchez_(photographer)
トニー・サンチェスについては、以前、この記事で、こんなこと書いてます。↓
「BEGGARS BANQUET」といえば、トイレの落書きジャケットが有名ですが、トニー・サンチェスもお気に入りだったようです。キースが下水パイプの上に「スパニッシュ・トニー、どこにいるんだい?」と書いてくれたから。(ちょうどこのときサンチェスは休暇をとってスペインのヴァレンシアに行っていた)
この落書き、ジャケットの裏面です。
↑パイプところです。
本題:ブライアンに捧げた詩
買った本は年季が入っていました。
今回読んだジム・モリソンの本でも、この件について書かれていました。
7月3日、ローリング・ストーンズのギタリスト、ブライアン・ジョーンズが、プールで溺れているのが発見された。
モリソンはそれを聞いて深く悲しみ、「L.A.に捧げる歌――亡きブライアン・ジョーンズをしのぶ」と題する詩を書くと自費で出版し、その月の終わりにロサンジェルスのアクエリアス・シアターで演奏した際に、会場のファンに配った。幸運にもこの73行の詩集をもらった人々は、ジョーンズの死を悼む美しい言葉に驚いた。
皮肉にもそのジム・モリソンは、2年後の同じ日に水のなかで死んでいるのを発見されることになる。
73行の詩、これですね。(もしかして7月3日だから73行??)
全部を打つのは大変なので、本に訳が載っていた部分だけを打ちます。
The angel man
w/Serpents competing
for his palms
& fingers
Finally claimed
This benevolent
Soul
天使のような男だった
その手のひらに指に
絡みついていたヘビが
とうとうこの優しい魂を
奪いさった
ブライアンとジム・モリソン
亡くなったときに詩を捧げるくらいだから、ブライアンとジム・モリソンは生前親しかったのかな?と考えてみました。
2人には考え方に少し共通している部分があります。
「ブルースってのは、骨の髄からアメリカンていう数少ない芸術のひとつさ」と、彼は後年、語っている。
「ロックンロールってのは雑種なんだ、ブルースから生まれたね。ブルースの起源はアフリカであり、カントリーであり、もともとスコットランドやアイルランド、イングランドからやって来たマウンテン・ミュージックなんだ。俺が真っ先に影響を受けたのは、そういった古いブルース・シンガーたちや、初期のロックンロール・シンガーたちさ」
当時のミュージシャンたちはブルース好きが多かったのかもしれませんが、なんであれ、ブルースを敬愛しているところや、
音作りにおいて、ドアーズはけっして妥協を許さなかったグループとして知られている。商業主義に断じて屈しなかったという姿勢でも。読者は<ハートに火をつけて>をCMソングに売り渡そうとした場面でモリソンが見せたすさまじい怒りを憶えておられるだろうか。
というように、商業路線を嫌ったあたりとか。
では、「気が合ったんじゃない?」となりそうですが、なんとなく私には、それほど親しくなかったように思えます。
ジム・モリソンはアーティスト過ぎる、というか、ちょっと怖いくらいクレイジーな気がするのです。
ブライアンもクレイジーと言われていますが、
「サルバドール・ダリが愛した二人の女」
でも書きましたが、周りが思っているほど、クレイジーではないように思えるのです。
ブライアンは悪ぶっていても、基本的にはおぼっちゃまで、友達も貴族階級の人が多いです。背伸びしていたというより、彼らとのつきあいのほうが気が楽だったのではないでしょうか。
これって、私のカンに過ぎません。
例えば、同時期、ジミ・ヘンドリクスと仲が良かったのはわかります。
あと、ビートルズだったら、ポールやリンゴよりもジョンやジョージと仲が良かったのもわかります。
っていうと、ジョン・レノンもクレイジーな気もしますが。もう、これは、カンとしかいえません。だから間違っているかもしれないです。
仲が良かったか、気が合ったのかどうかは別として、ブライアンに詩を捧げてくれたジム・モリソンには、ありがとう!って言いたいです。
きっと、ブライアンファンなら、同じ気持ちですよね^^!
ブライアンと一緒にいるのは、スキ・ポワティエですね。