1年くらいぶりに、好きなインディーズバンドの路上ライブに行った。
着いたら既に始まっていて、知らない新曲も増えていて、でも知ってる曲もあって、元気をもらいながら、うるうる感動した。
終わった後、メンバーが新しいチラシを配っていたので並んでもらうことに。
久しぶりだから、きっと覚えてないだろうな、と思いつつ、一応「”初めて”ではなく、久しぶりにきた」ことだけアピールしようと思っていると、私の顔を見るなり、相手のほうから「久しぶりですねー!」と言ってくれたので、びっくり。
「覚えててくれたんですかー」
「当たり前ですよー」
みたいな会話を交わしつつ、感激!
私が特別印象深いファンだったということではないと思うので、メンバーの人たちは、ファンの顔を忘れないようにしているのだろうなーと思った。
でも嬉しかった。彼ら(彼女ら)が、そこに変わらずにいてくれたこと、変わらないメッセージを発信し続けていてくれたこと。
ああ、これでいいんだなって、思った。
こういう気持ちが、こういう姿勢が大切なんだって、またひとつ大切なことを教えてもらった。
ありがとう、みんくす☆
映画を観た後の感想で、私は「イーディは、とても純粋な人」というようなことを書きました。
本当に可愛い魅力的な人で、彼女はなにも悪くなくて、一方的な犠牲者のように思えたから。
そしてウォーホルについては「なんて冷たい人なんだろう。本当にこんな人だったのだろうか」と思っていました。
でも、その後「イーディ――60年代のヒロイン」(筑摩書房)を読み、イーディが出演していた「チャオ! マンハッタン」という映画を観て、またウォーホルのドキュメンタリーを観たりして、それらの感想が微妙に変わりました。
イーディについても、アンディ・ウォーホルについても、一言でこういう人だと表現するのは難しいのですが。
でも本物のウォーホルの映像を観ると、映画のガイ・ピアーズがどれだけ頑張ってウォーホルを演じているのかがよくわかります。
ウォーホルは神経症的なところがある人で、何かに脅えているような人で、孤独が嫌いで、でも他人とぶつかり合うことができない人で、有名人が好きな人。
映画だとウォーホルがイーディを遠ざけたように描かれていましたが、実際にはイーディから離れて行ったような感じです。
イーディがボブ・ディランを好きになって、彼と一緒に映画を撮ったりしたいと思うようになった。
イーディの方は本気だったけれど、その頃、ディランは密かに結婚していて、映画のようにウォーホルがイーディに「ディランは結婚している」と教えたようです。
ウォーホルは基本的に、一度切れた人とはそれきりの場合が多かったようなのですが、イーディとはその後もよりを戻したりもしていたようです。(よりを戻すといっても、恋愛関係ではありませんでしたが)
それくらい、ウォーホルにとってイーディは特別な存在だったのではないかと思われます。
イーディはウォーホルから離れてから、「(ウォーホルは)人が自分の思い通りに動く、操り人形やロボットになるまで、さんざん利用しつくしたあげく、捨ててしまう。サディスティックなオカマだ」などと言っていたようですが。
映画で描かれているように、ウォーホルがイーディのことを、「それほど親しくなかった」というようなことも実際に発言したようですが、それがそのままウォーホルの本音で、彼の冷たさだとは思えないような気がします。
実際のウォーホルのインタビューの様子を見ると、彼がそれほど率直に本音を語る人間のようには思えないからです。
”嘘つき”というのとは、違うのですが。
ウォーホルにイーディの死を知らせたカセットテープが残っているそうで、その言葉のやりとりだけを抜き出すと↓こんな感じ。
「イーディが窒息した」
ウォーホル「いつ?」(驚いているふうでも、悲しんでいるふうでもない)
「イーディはドラッグで死んだんじゃないのよ。眠っているうちに窒息したの」
ウォーホル「どうやればそんなことができるのかな」
「わかんないわ」
ウォーホル「彼(イーディの夫)は全財産を相続するのか」
「イーディはお金なんて持ってなかったわよ」
(しばらく間があって)
ウォーホル「それはそうと、きみは何してるんだい?」
(と会話の相手の話題になっていく)
ウォーホルの実際の映像などを観て、彼のことを少しでも知ると、なんとなくこの会話の様子が伝わってくるし、いかにもウォーホルらしいと思えます。
驚いた時に、全然驚いていないような反応をしてしまうことってあると思うし、ウォーホルの素っ気ない反応は、そういうことだったのではないかと思えるのです。
あまりにも驚きすぎて、上の空になってしまう、動揺を取り繕おうと思うあまり、トンチンカンな反応をしてしまうということ。
その場で涙を流して嘆かなかったからって、悲しくなかったということではないということ。
彼は不思議で、とても魅力的、近付き過ぎないでつきあっているのなら、楽しいタイプのような気がします。
一方、イーディはどういう人だったのかというと――
更に難しいです。でも映画を観た直後のように、ただ純粋な人、というのではなくて、それなりに欲を持っていた人だと思います。
生に対する欲というより、認められたいという欲。
映画のイーディも、実際のイーディも、自分が早死にすることを悟っていたようなのですが、でも彼女が本気でそう思っていたのかどうかは、わかりません。
育ちがよく、リムジン以外には乗りたがらず、細くて頼りなくて、一人では何もできない、放っておけないという雰囲気を醸し出していた。
近寄りがたいほど綺麗で上品なのに、人懐こくて、人を引き寄せずにはいられない。
イーディの好きだったリチャード・ロジャースの「愛をいっぱい(ローズ・オヴ・ラヴ)」の歌詞。
「お金がほしいだけ、そうよ少しのお金、それから素晴らしい愛をいっぱい」
その抒情詩はとても素晴らしくて、彼女にふさわしいものだということです。
「わたしは、これまで多くのことを与えられたことがない 要求したことがない 期待したことがない 拒絶したことがない わたしは夕食と、人々との会話、それからたくさんの深い愛がほしい」
どんな小さなレストランだろうと「このおさかな、新鮮?」と訊く。(映画にも出てきましたね)
新鮮ではないと、突き返してしまうが、それが嫌味にならない貴族的な雰囲気があった。
その他、イーディを知るためにポイントとなるような証言を紹介します。
「イーディはとても弱々しくて傷つきやすかったわ。それに、ひどく散漫だった。文章をきちんと言い終えたことはないし、絶対に相手の顔は見なかったし、いつも心ここに在らずって風だった。話すことはいつも父親のことか、家族のこととか、故郷のサンタバーバラのことばかりだった。父親のことはかなり崇拝してたけど、でも同時に、憎んでたし、怒ってた。なぜって……その、父親になんども犯されたかららしいのね。これがどういうことか、文字通りの意味なのか、そうじゃないのか、は分からない。」
「イーディがアンディを世に出したんです。現実の世界ってものをかれに紹介してやったんです。ずっと日陰者の中にいましてね、かれは”出世主義者”だったんです。で、イーディがそのかれのバックになったという訳です。でしょ? あの子が連れて行くまで、全然ああいうパーティーなんかにかれは出たことなかったんです。」
そして、これは的を射た証言かと思うのですが、
「イーディは自分のことを、蝶になってしまった毛虫みたいだと思っていたんじゃないかな。どちらかといえば幸薄い大家族の中の子供のひとりにしかすぎない、と思いこんでいたんだ。ところが突然、スポットライトが彼女に当たり、何かとっても特別なものであるかのように扱われ出した。しかし心の中では、一握りの泥みたいに感じていたんだ。だから、注目されなくなっていくと、自分が何者なのか見極められなくなる。そういった崩壊の可能性は、イーディの性格的な弱さが培ったものだった。われわれは、自分がひとりなんだという現実に慣れなくてはいけないんだよ。もしもその事実を受け入れられないのなら、狂うしかないんだ。イーディはそうして、狂っていったんだ。」
自分がひとりなんだという現実を認め、慣れていくこと――スターであり続けるための条件なのかもしれません。(一般人として暮らしていたって、こういうことが必要な局面はあるのですが)
「チャオ! マンハッタン」で、豊胸手術をした胸を露出したまま演技する(演技というより素のまま?)完全にラリっているイーディには、危うさと、それでもどこか品の良さを感じます。
奔放すぎる様子のイーディは、陰で地道に努力するというようなこととは無縁だったように思えます。
イーディは薬物の過剰摂取で亡くなったのかと思っていましたが、上記では「窒息死」と言われていますね。
実際には、亡くなることになってしまった前夜、イーディはパーティーに参加して、眠る前に夫のマイケルがいつものように睡眠薬を与え、イーディはすぐにひどい寝息をたてて眠ったのだそうです。
そして翌朝には、彼女は冷たくなっていた――
(ファクトリーにその知らせが届いた時、みんな「イーディ? 誰?」と言ったそうです)
あの映画を観ただけではわからなかったイーディのこと、ウォーホルのことが少しだけかもしれないけれど、より理解できました。
そして改めて知ったイーディとウォーホルの方が、より人間的で、魅力的です。
ウォーホルの作品には、今までそれほど興味がなく、きちんと観たことがありませんでしたが、機会があればちゃんと観てみたいです。
さて、タイトルに「いきなりブライアン」とありますが、イーディの本を読んでいたら、いきなりブライアン・ジョーンズの名前が出てきたので、驚いたのです。
パティ・スミスの書いた詩です。
パティ・スミスはイーディのファンであると同時にブライアンのファンでもあったらしいです。
イーディの死を知り、その時書いた詩の中にブライアンの名前が出てくるのです。
最後に、ご紹介します。
”イーディ・セジウィック(1943-1971)”
”どんなふうにやってたのか、分からない。火をそこいらじゅうにまきちらしていた。メーキャップには何時間もかかった。でも、彼女はちゃんとやった。付けまつ毛も忘れなかった。注文するのは三倍のライムで割ったジン。そしてリムジン一台。ブロンド・オン・ブロンドのヒロインだった。みんな、知っていた。”
ああ、こんなのフェアじゃない
ああ、こんなのフェアじゃない
あの白貂の髪は
男たちをきりきり舞いさせた
純白をしのぐ純白
ブロンドをしのぐブロンドだった
あの長い、長い脚
わたしは何回も頼んだ
いっしょに踊って
でも、一度だって
チャンスはなかった
ああ、こんなのフェアじゃない
あの白貂の髪は
すてきにスウィングしていたし
風を切っていたし
男たちはだれもかれもが
彼女といっしょに踊った
わたしには一度もチャンスがなかった
どうしてもと頼んだのに
こころの
ずっとずっと深い
あの、夢に目をこらす
場所で
彼女の動き
のなかに
わたしがつかまえた
愛を読みながら
わたしたちは
くるくる回っていた
そして彼女は
くるくる回り
町じゅうのみんなを
くるくる回し
揺らした 揺らした
かがやく骨のからだ
ブライアン・ジョーンズの次の
二番目のブロンド・チャイルド
ああ、こんなのフェアじゃない
彼女を夢をわたしは見つづけたのに
眠りについた
眠りについた
永遠に
もうけっして踊れない
いっしょには けっして
こわれた
ベビーみたいに
窒息した
ベビーみたいに
ベビー・ガールみたいに
レディみたいに
白貂の髪の
ああ、こんなのフェアじゃない
もういちど、見たい
彼女が起きあがるのを
白い白い骨のからだを
ベビー・ブライアン・ジョーンズ
といっしょに
ベビー・ブライアン・ジョーンズ
顔を赤らめる
ベビー・ドールたち
nicoの歌をBGMに、イーディ・セジウィックです。アンディ・ウォーホルのファクトリーの世界……
Femme Fatale – The Velvet Underground & Nico (Edie Sedgwick Rare)