「ブライアンとキース・リチャーズ part20」の続きです。
ミックとブライアンのブログの時には、ブライアンが亡くなってからのミックの20年以上のことを一回のブログでまとめて書いたのですが、このキースとブライアンのブログは一回で書くというわけにはいかないようです。
というのは、先日も書きましたが、どうしてもこのブログ、書こうとすると気が重くなってしまうのです。
でも、こんなふうにじわじわ更新していて思いました。
(前にも書きましたが)ブライアンもキースと自分の関係のことを考えては気が重くなったのかもしれない、そして結論が出ないまま亡くなることになってしまったのかもしれないって。
いい仲間だと思っていたキース、自分と同じように、キースも自分に好意を持ってくれていると思っていたのに、自分の知らないところでアニタとの関係を深め、そして結果的にアニタを奪ってしまったキース。
更に、ストーンズから自分を切り離したキース。
ブライアンがキースに最後に会ったのは、クビを宣告された時ですよね。
だから、ブライアンはキースが本当はどういう人間なのか、自分のことをどう思っていたのか、答えを出せないままだったのだと思うのです。
再会して、また仲良くなれる時がくるに違いない――、心の中ではそんなふうに思っていたのだと思います。
仮に口では悪く言っていたとしても……、だってブライアンってそういう人でしょう?
そんな当時のブライアンの心境に思いをはせながら、無理に先を急がず、じっくりじわじわ書いていこうかなと思いました。
それこそ、ブライアンと共に、キースのことを考えるようなつもりで。
とか言いながら、この先、あっという間に終わったりして。
まあ、それならそれでいいのですが、とにかく焦らず書いていこうと思ったのでした。
もしかしてキースとの関係というのは、ブライアンにとっても一番気にかかっていたことだったのかもしれません。
ブライアン本人が到達できなかったキースとの関係の真実に、このブログがたどり着けたりして!
(なんて、すみません、思い込み激しすぎです、妄想ブログなので、その前提で楽しんで頂ければ幸いです)
太字はキースの発言です。
1970年8月、ミックはローマでカメラマンを殴り、1200ドルの罰金を払う。
1972年5月、ミックとキースはボストン、ワーウィック空港でカメラマンを殴打し告訴される。
1972年6月3日にツアーが始まった。(コックサッカー・ブルースのツアーですね)
ミックの様子が気がかりだったとスタンリー・ブースは書いている。
「ピンクの衣装を着たミックは、まるでパントマイムの道化師のようで、レイプや殺人の曲でさえ喜劇のように演じる」
そしてスタンリー・ブースは、
「医者はわかっていなかったが、ミックには多少なりとも軽度の象皮病の兆候があった」
とも書いている。
――スタンリー・ブースはたまに独断でこういうことを書くのですが、その信憑性については、どうなのでしょうね?
ツアーはドラッグ漬けで、ミック・テイラーは深刻なドラッグ中毒になりつつあった。
「実際、音楽は二の次っていう状態にまできていたよ。ほとんどの時間はドラッグの調達と使用に費やしていた」
1972年8月9日、キース、アニタ、マーロン、ダンディライアン(キースとアニタの長女)は、スイス、モントルーの山奥にあるヴィラールという小さな村のシャレーを借りて生活を始めた。
キースとミックは別々の国で暮らすようになり、仕事の連絡を電話ですませるようになっていた。
「そのときまで、ミックとおれはおたがい切っても切れない存在だった。ストーンズに関する事柄はすべておれたち二人で決めていた。二人でいろんなところへ行き、いろんな曲を書いてきたんだ。その二人が別れたとたん、おれは自分の道――ドラッグ地獄へ続く下り坂――を行き、ミックは一気にジェットセット族の世界へ昇っていっちまった」
ミックとの関係はキースの人生のなかでもっとも長く、親密なものだったが、それはキースがブライアンに対して行ったような、相手がぼろぼろになるまで利用しつくすといった麻薬常習者的なパターンとはまったく違っていた。キースの言葉を借りれば、彼とミックはつねに闘っていたのだという。
――えーと、ここで一言。
キースはブライアンをボロボロになるまで利用しつくしたのでしょうか。
そう見えたとしても、私はキースにはそういう意識はなかったと思います。
自分の世界にこもっているアーティストは別として、表現する人というのは、常にアンテナを張り巡らしているものでしょう。
そして感性に触れるものがあれば、
「これを自分の作品にも取り入れたい」
と思うものなのではないでしょうか。
ただ、それをそのまま真似したのではいわゆる”パクリ”になってしまうので、そこから何かを感じ取り、自分なりの表現に変えていくことが必要なのですが。
キースは(ミックも)ブライアンから多くのものを学んだと思いますが、それによってブライアンをボロボロにしてやろうと思っていたわけではないと思います。
一方的に利用したのでもないと思います。
ブライアンだって迷惑をかけたこともあったのだし。
それに例えキースがブライアンからたくさんのものを吸収したのだとしても、決してブライアンの才能が枯渇していたわけではなかったでしょう。
当時、ブライアンがボロボロだったのは、いろいろなことがあり過ぎて悩みが多すぎて解決策がわからなくて、そしてなによりも体調が悪くて、自分を取り戻すのには時間が必要だったということなのではないでしょうか。
ツアーが終了した時、仲間の中には心身ともに疲れきり、仕事をするのも難しい状態になっているものもいた。
プロデューサーのジミー・ミラーについては、
「以前はライオンみたいに勢いがあったのに、子羊みたいに弱々しくなってしまった。ジミーは優れた人間だったが、プロデューサーとして成功すればするほど、どんどんブライアンみたいになっていった。最後には、スタジオにある木製のミキシング・ボードに”卍”を刻みつけるくらい、偏執的になっていたんだ。三ヶ月もかけて”卍”を刻んだりしたんだよ」
と言われるような状態になっていた。
「ミックとおれでは生きる姿勢がまるで違うし、70年代はほとんど、おれとミックは別の世界で暮らしていたんだ」
キース、ミック、アニタ、マリアンヌの4人で過ごしていた日々とは違い、ビアンカと結婚してからのミックはキースに会うのもままならない状況だった。
新しいアルバム「山羊の頭のスープ」のレコーディングはジャマイカで行われた。
アニタはマリファナ所持で逮捕され、報告書によると監獄で殴られ暴行されたという。
キースが12000ドルの賄賂を使ってアニタは釈放された。
「山羊の頭のスープ」に収録されている「アンジー」は、”ANITA-I-NEED-YA.”(アニタ、おまえが必要だ)というキースがアニタに捧げた曲なのだと言う。
――ひーえー、「アンジー」について、以前私は全く別の解釈をしたのですが、大いなる勘違いだったのですね!
そもそもあの歌詞は、ミックが書いたのかと思っていたのに。
1972年12月1日、日本公演の前売りがスタートする。
日程は、1973年1月28,29,30,31日、2月1日、日本武道館。
しかしその後、1973年1月19日、日本公演の中止が正式に発表される。
1972年12月にキースは知人に無理矢理ヘロインを注射した疑いで調書をとられる。
1973年10月、キース欠席のまま、1350ドルの罰金と執行猶予1年の判決が下る。
1973年6月、キースはドラッグと短銃の不法所持で逮捕される。
10月、250ポンドの罰金を払う。
さて、この後も波乱に満ちた日々が続きますが、今回はこのへんで。
最後に、今回出てきた「アンジー」の映像を紹介します。
曲もいいですが、この当時のストーンズは退廃的な感じがいいですね。
よろしかったら以前書いた大いに勘違いだったブログ「悲しみのアンジー」も、あわせてどうぞ。(歌詞も紹介していますので)