ブライアンと「キース・リチャーズ part19と20の間」経由、「ブライアンとキース・リチャーズ part19」の続きです。
何度か書いていますが、このブログ、つまりキースとの関係を書こうとすると、ものすごく気が重たくなります。
書き始めた頃はそうでもなかったのですが。
ふと、ブライアンももしかして、アニタのことがあって以降、自分とキースとの関係を考えていて、こんなふうに気が重たくなったのかもしれない、なんて思いつきました。
私は何度も「ブライアンはキースに好意を持っていたと思う」と書きました。
初めは確かにそうだったと思うのですが、アニタの一件以降も、その気持ちはずっと変わらなかったのでしょうか。
Contents
ブライアンのキースに対する心境の変化
↓思いついた当時のブライアンの心境↓(もちろん妄想)
キースは裏表のないいいヤツ、基本的に俺はキースに好意を持っているし、キースも俺に好意を持ってくれているはずだから、喧嘩することがあっても仲直りできる。
なのに、俺がいない間にアニタと(キースが言うところの)”あやしい関係”になるとはどういうことだ?
しかも、俺がいない間にアニタを連れていなくなるとは?
本当はこいつは何考えてるんだ?
その上、嫌がらせみたいに俺の前でアニタといちゃつきやがって。
弱りきった俺に、クビを宣告にくるとはどうなってるんだ。
ミックとチャーリーが気まずそうにしている中、平然と言い放つとは。
裏表がないヤツじゃなかったのか? 本当は裏でなにを考えてたんだ? キースは一体、どういうヤツなんだ?
デビュー前、食べるものもない寒い汚い部屋で他にやることもなくて、二人でギターを練習した日々、”二人のギタリスト”というより、二人のギターの音が一体になるくらい息を合わせた演奏を目指していた。
↓part2より引用↓
イアン・スチュワートは言う。
「二人がやろうとしていたのは、ほかのバンドではやっていなかった。ギターを二本同時に演奏することだった。一本が主旋律を弾いて、もう一本がリズムを刻むのではなくて、キースとブライアンは二人がもっと一体になって、交互にリードをとって、ソロも交代でやって、渾然一体にしようとしていたんだ」
そんな日々を思い出して、ブライアンは混乱したかもしれません。
ブライアンのコッチフォードの家の改築をしていたフランクは、公開された映画では”ブライアンを殺害した”ということになっていました。
その信憑性は怪しいものだと私は思っているのですが、その他、フランクはロクな仕事もせず、大きな態度だったという証言があります。
そのことに厳しく文句を言えなかったのは、ブライアンの性格の弱さゆえだったのだと。
しかし、そのフランクは元々キースのところで働いていた人で、そのつながりでブライアンのところに来たわけですが、ブライアンとしては、「なんでキースはこんないい加減な人間を俺のところに寄こすんだ」と思いはしなかったでしょうか。
そして続いてキースは(というか実際にはミックもチャーリーも一緒でしたが)、ブライアンにクビを宣告にやってくるわけです。
確かにストーンズから切られたときのブライアンは演奏も満足にできないような状態で、バンドのお荷物になっていたから、クビになっても仕方ない、自分でもそれはわかっていたと思います。
とはいえ、自分が創ったバンドから外されてしまうという事実に納得できない部分はあったと思います。
そしてなによりも、自分にクビを平然と言い渡し、スッキリしているかのようなキースに対しての不信感が増大したのではないでしょうか。(口で言うほど、心からスッキリしていたかどうかはわかりませんが)
アニタがキースと付き合い始めた頃、ブライアンはキースの元恋人のリンダ・キースと付き合っていました。
アニタを奪っていったキースへの腹いせのようにも思えますが、よく考えてみれば”腹いせで元恋人と付き合う”というのもおかしな話です。
ブライアンがリンダ・キースと付き合っていたのには、そんなに深い意味はなくて、むしろ、
「キースへの腹いせなんじゃないか」
と思われることにストレスを感じていたかもしれません。
おまけに、リンダ・キースが勘違いから自殺未遂を起こしたせいで、住んでいたフラットから追い出されることになってしまうし。
「俺はなんてついてないんだ」
と思ったとしても、不思議ではありません。
ふ~、こんな感じだったら書き進められるかも!
この勢いで、ブライアンが亡くなった後のキースについて書いていこうと思います。
1969年7月5日ハイドパーク、そして息子の誕生
結果的にブラアンの追悼コンサートになってしまった1969年7月5日のハイドパークでのコンサートについてのキースの発言。
「あんな光景は、ハイドパークでは二度と見られないだろう。木立と人でびっしり埋めつくされていたんだ。けどブライアンが死んで、おれたちはミック・テイラーに早くなれてもらおうとしていた。かなり長いことライブをやってなかった。当然の結果として、組織もやり方もまとまっていなかった。おまけにコンサートが終わる間際まで、演奏はめちゃくちゃ。もう何年も、人前で演奏なんてやってなかったからね。それでも、野次を飛ばすやつは一人もいなかった。ストーンズのステージをもう一度見られたというだけで、聴衆は大満足だったのさ。ファンがおれたちのステージを楽しんでくれて、ほんとうにうれしかったよ。ファンの顔を見るのがおれたちの喜びだからね。ブライアンが死んだ今、ファンに喜んでもらうことが残されたおれたちのつとめなんだ。ステージに飾ったブライアンの大きな写真が、まるでどこかの写真で見た幽霊みたいに見えたよ」
しかしある評論家はキースの演奏を、
「どう見ても、麻薬中毒者のそれとしか思えないものだった」
と評した。
1969年8月10日、キースとアニタの息子、マーロン・リチャーズが誕生。
キースは丸くなり、アニタとマーロンと暮らす状況にとても満足していた。
しかしアニタは、キースがマーロンを可愛がるのを見て、
「彼にはわたしよりもマーロンのほうが大切なんじゃないかしらって思うときがあるの」
ともらしていた。
マーロンの誕生をきっかけに、男性が幅をきかせていた音楽業界におけるストーンズに対するアニタの影響力は薄れていった。
12月6日、オルタモントの悲劇
12月6日に行われたフリーコンサートは、後にオルタモントの悲劇と呼ばれるようなものになってしまった。
観衆たちは殴り合いを始め、ミックは観衆の連帯感を喚起しようとし、キースは、
「あいつらが暴力をやめない限りコンサートは中止だ」
と叫んだが、結果的に黒人の青年が命を落とすことになってしまった。
メンバーはヘリコプターで会場から退散した。
ミックからの悲痛な電話を受けたパメラ・デ・バレスはストーンズが宿泊するホテルに駆けつけた。
パメラ・デ・パレスは、「伝説のグルーピー」の著者。
部屋の中は狂乱状態で、ミックは、
「あんなことになったのは俺のせいだ。俺は一生ロックンロールを捨てる」
と何度も繰り返した。
キースがロンドンに戻った時、出産後のアニタはすっかりヘロインに毒されていた。一人残されたアニタは暇さえあればマリアンヌと二人で、ヘロインをやっていた。
そしてキースもまた、ヘロインに手を染めるようになる。
後にミックの子供を産むことになるマーシャ・ハントは、ミックと同じ通りに住むキースとアニタの家に一度行っただけで、
「この人たちにはあまり深入りしないようにしようと判断した」
と言う。きついドラッグをやっていることがわかったからだ。
アニタの寝室のタンスの上に、銀の額縁に入ったブライアンの写真が飾ってあった。キースとアニタは、ひるむことなく現実に向き合っているように見えた。
ストーンズはアレン・クラインの手を離れ、独自のレーベルを設立する準備を進めた。
ミックはローリング・ストーンズ・レコーズの経営をチェス・レコーズの御曹司、マーシャル・チェスに一任することにした。
マーシャル・チェスは言う。
「ミックは相当頭のいい男だ。だがわたしには、キースこそローリング・ストーンズという感じがしたね。彼はどんなときでも、ありのままの自分を崩すことがない」
プリンス・ルパードが調べた結果、それまで7年間にストーンズが稼いだ金は総額2億ドルにのぼっているにも関わらず、その多くは実際にはメンバーの手に渡っていなかったことがわかった。したがって課税対象となる1971年4月までにイギリス国外に移住しなければ、莫大な税金によって彼らは破産してしまう。
その時点で支払義務のあった税金をすべて清算した後、彼らは南フランスに引っ越した。
1971年5月12日、ミックは彼の子供を宿したビアンカとサントロペで電撃結婚した。メンバーの中で式に招かれていたのはキースだけだった。
最近のキースのファッションセンス
勢いが尽きて、また気が重たくなってきました。
もう限界なので、続きは後日。
そうそう、また妄想の中で思いついたのですが、オシャレにはうるさいブライアンが現在のキースを見たら、
「おまえ、その五円玉もそのメイクも変だよ」
なんて言いそうです。
他の人が思っても言えないことを言ってしまうブライアンに、(言われたことが図星なだけに)キースは「ムカつくヤツだな!」と反感を抱くかもしれなくて、そう考えてみれば、当時のキースもそんな小さなことが重なっていったこともあり、ブライアンに対する鬱憤をためこんでいったのかもしれません。
ああ、まずいかも。
なんだか悪口を書いているような感じになってしまっています……