ブライアンとキース・リチャーズ part10


桜満開^^!

ブライアンとキース・リチャーズ part9」の続きです。

初めに本題からずれますが、part9にブライアンとアニタが住んでいたフラットにウィリアム・バロウズも出入りしていたと書きましたが、「ウィリアム・バロウズと夕食を」(ヴィクター・ボクリス著、思潮社)に書かれていたことについて触れておきます。

1.1966年、バリー・マイルズ(文学史家、記録保管人、雑誌編集者)とポール・マッカートニーとマリアンヌ・フェイスフルとジョン・ダンバーの4人は、音の雑誌(レコード形式)を創刊しようとしていた。テープレコーダーを扱える人が必要だったので、イアン・サマーヴィル(ウィリアム・バロウズの秘書兼恋人?)を呼び、リンゴのスタジオを借りた。イアンはそこに住み着いてしまい、ウィリアム・バロウズもそこにいることが多かった。
ウィリアム・バロウズも何度かポール・マッカートニーに会い、イアンと3人でテープレコーダーの可能性について話した。
ウィリアム・バロウズはポールのことを「感じのよい、好感のもてるハンサムな若者」と印象を述べている。

2.マイルズとイアンとピーター・アッシャー(あっ、この人はもしかして、ピーター&ゴードンのピーター? そして、ポールの当時の恋人ジェーン・アッシャーのお兄さん?)がそこにいた時、ポールが「ラバー・ソウル」のアセテート盤を持って入ってきた。世界中に先駆けて「ラバー・ソウル」を聴き、ロックが辿りつつある方向は間違いなく電子音楽だと話し合ったが、誰もそれがどういう意味だかわかっていなかった。

3.あるパーティーにミック・ジャガーが現れた時、マイルズはアレン・ギンズバーグ(詩人)に頼まれ、ミックを紹介した。2人はバルコニーに出て、音楽や唱法、呼吸法について話した。その後、アレン・ギンズバーグはミックをウィリアム・バロウズに紹介した。

ウィリアム・バロウズは、
「ミックは強烈なエネルギーと知性、クールさを発散していた。状況を把握し、これからどうなっていくのかよくわきまえている。彼の作品は全部聞いた訳じゃないが、素晴らしいと思っていたし、彼にのしかかるプレッシャーゆえに彼自身を尊敬していた。偶像化される一方、信じられないくらい無礼な扱いを受けている。彼とマリアンヌ・フェイスフルが空港に着いた時、六台のタクシーが彼らの乗車を拒否した。どういうものか、ミックには保守反動者たち、タクシー・ドライバーや肉体労働者たちの反発心を煽る何かがあるらしい。これは世界中どこへ行っても同じことだ。にもかかわらず、ミックはそれを受けて立ち、平衡状態とクールさを保っているというのは本当にすごい」
と、ミックをベタボメ。

4.ウィリアム・バロウズはブライオン・ガイシンの言いなりで、ブライオンが、
「さあローリング・ストーンズに会いに行こう。しかしその格好じゃあ、ちょっとまずいな。ベル・ボトムのジーンズを買うべきだ」
と言うと、ウィリアム・バロウズは素直にそれに従った。全然似合わず、着心地も悪そうだったが、ブライオンのことを信頼していたから、その格好をした。

ん~、たぶん、ブライオン・ガイシンと一緒にブライアンのフラットにも行ったのではないかと思われるのですが、そのことには触れてませんね。むしろ「60年代半ばから後半にかけてのロンドンには会いたいと思う人があまりいなかった」などと言っていたり。
目的のないパーティーもあまり好きではなかったようで。

以上、すっかり前置きが長くなりました。

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さて、本題に入ります。
太字がキースの発言です。

アレン・クラインは、アンドリューに代わって、ストーンズの第三の切れ者になっていた。
クラインはまず、42日間の全米ツアーを計画した。

それと同時に、アウトテイクや一度はボツにされた曲を寄せ集めた「December’s Children」を発売した。

キースは商魂みえみえだと腹をたて、本国では絶対に売らないと言ったが、アメリカでは発売されるやいなや、たちまちヒットチャート4位まで駆け上り、コンサートのチケットは完売となった。

ツアーは厳しく過激なものとなった。

周りの空気は常にぴりぴりしていて、誰もが恐怖感を抱いていた。

キースはストーンズを守ろうとして戦っていた。ツアー中に自分たちをホモ・グループ呼ばわりする者がいれば、そいつの口元に蹴りを入れた。

1965年の終わり頃になると、キースとミックが作る曲は、ますます女性を攻撃する傾向が強まっていった。

「すべてはおれたちのおかれた環境の副作用さ。ホテル暮らしが続き、どっちを向いてもばかな女がキャーキャー騒いでる。もちろん、全部が全部そうじゃなかったろうが、そう思えてくるんだよ。つくづくイヤになってくる」

1965年12月、ツアーも残りあと4日という中で、ハリウッドRCAスタジオで「Aftermath」のレコーディングが行われた。

最高21時間ぶっ続けのこのレコーディングで疲労困憊した。

ブライアンはツアーの途中で具合が悪くなり、セッションでもミスばかりだった。

仕事に支障がない程度にドラッグやアルコールやドンちゃん騒ぎを楽しんでいたキースから見ると、ブライアンの態度は軽蔑にも値しなかった。

ギターのパートナーとして信頼していたブライアンが使い物にならないとなると、キースの負担は倍加するばかりだった。「December’s Children」「Aftermath」のギター部分をほとんど一人で演奏しなければならなかったため、大いに勉強にはなった。

だが、ブライアンがどうにか体調を整えて「Aftermath」のレコーディングに参加すると、これがまた彼の最高の演奏で、大いにストーンズに貢献することになった。

「ブライアンはギターを抱えたまま、どっと倒れてのびちまいそうだった。その後で彼はどでかいことをやらかしてくれるんだよ。9時間ものびてたり、あるいは2日も3日も演奏に参加しないでいたかと思うと、急にスタジオにやってきて、実に美しい演奏(ピアノとハープシコードで)を入れてくれるんだ。ほんとうに誰も考えもしなかったほどきれいなメロディをね」

このツアー中(12月3日)、キースはステージ上で「The Last Time」のコーラスに入る時、マイクの向きがおかしいのに気づいてギターのネックで叩いて直そうとした。

途端にまばゆい閃光が走り、激しい電気ショックを受けて、キースは失神した。

ステージの幕は下ろされ、不可解な静けさがコンサートホールを包んだ。ストーンズのメンバーは何もできずに、キースを見下ろすばかりだった。誰もがキースは死んだと思っていた。

長い2分が過ぎると、キースはボーッとしながらも、見た目には何の怪我もなく立ち上がった。

診察の結果、キースが履いていたハッシュ・パッピーのスウェードのブーツの底が厚かったために感電死を避けられたとのことだった。

医師は数日は休むようにと言ったが、キースは翌日にはバンドに復帰して、演奏していた。

――身体が弱かったブライアンには、この当時のハードなスケジュールはかなりきつかったのだと思います。

精神的にもナイーブだったブライアンはドラッグやアルコールやドンちゃん騒ぎで、精神のバランスとろうとしていたのかもしれません。

ただ次第に、自分を支えてくれていたそれらのものも、役に立たなくなっていったのでしょう。

むしろ健康を脅かし、更に精神的に不安定にさせるものになってしまった。

ブライアンはサボっていたのではなくて、それだけの休養をとらなくてはやっていけないくらいギリギリのところで頑張っていたのではないかと思います。

倒れた翌日にはステージに立てるほど頑丈な身体を持ったキースには、脆いブライアンのことは理解できなかったのかもしれません。

1966年初め、キースは交際していたリンダ・キースと落ち着こうと考え、ロンドンから南西へ一時間半のところにある家、レッドランズを購入した。

チューダー朝様式の造りで、屋根は藁葺き、二階には寝室が4つとバスルームが1つあり、キースはこれを豪華な現代風に作り変えた。

建物の周りには二万平方メートルを越す芝生の庭と、800年の歴史を誇る堀があった。

キースはまた、新車のベントリー・S・ツーリング・コンチネンタルを購入した。

ところが、この頃、生きる支えだったリンダ・キースとの仲が壊れ始めた。

リンダがヘロイン中毒になっていたからだった。

キースは覚醒剤やマリファナもコカインも酒もLSDもやったが、ヘロインなどの強いドラッグにはまだ染まっていなかったので、ドラッグに対して自制のきかないパートナーとは一緒に暮らせないと思ったのだ。

1966年2月3月、ストーンズはまたツアーに戻った。

4月15日に「Aftermath」がイギリスでリリースされると、初登場で一気に一位になった。

ニュー・レフト・レヴューの誌上対談でリチャード・マートンは次のような指摘をしている。
「ストーンズの最大の長所であり、大胆不敵な点は、社会体制でもっともタブー視されているものに繰り返し執拗に挑んできたことです。たとえば、性的不平等といったものですね」

「ストーンズが表現した、二番目に大きなテーマは、精神病というテーマです。他に例を見ない狂暴さと真実味があり、伝統的なポップ・ミュージックの気の抜けたような曖昧模糊とした世界ではつねに否定されたり薄められたりしている現実を明確に表現しているのです」

1966年4月16日、キースは犬のラットバックとともに、レッドランズに引っ越した。

しかしリンダとの関係は悪化し、新居に移ってからの毎日は辛いものになっていた。

5月にリンダはニューヨークに去っていった。

この突然の出発は最悪のタイミングで、ミックは神経衰弱でダウン寸前だったし、ブライアンはここ一年というも身体が弱る一方で、バンドの力にはならなかった。

そして6月には過酷な全米ツアーが控えていた。

キースの引っ込み思案は相変わらずだった。

ロンドンのアルバート・ホールで行われていたボブ・ディランのコンサートに行ったものの、キースはディランと口もきけない様子だった。

ブライアンがまず話の糸口を見つけ、それにキースも加わり、ディランの仲間に受け入れられたのだった。

ディランは「俺には”Satisfaction”が書けるが、おまえには”Mr.Tambourine Man”は書けないぜ」とがなりたてた。

その頃のキースは、”ただの内気な男”で、女優のブリジット・バルドーに紹介された時も、すっかり圧倒されてしまい、話しかけられても口の中でボソボソ何か答えて、後ずさりして人ごみに紛れ込んでしまった。

6月1日には「Paint it black」が全米で一位となった。

ブライアンはスタジオで時間をかけてシタールの演奏の練習に励み、それをレコーディングに生かした。

キースもこのことについてはブライアンを誉めている。

「彼は、そういう凄い集中力を持ち合わせていたんだ。それまでやったことのない楽器を取り上げ、一時間かそこらでものにしてしまうんだよ」

キースは6月23日にニューヨーク入りし、そこでリンダ・キースがある黒人のギタリスト、当時はまだ無名のジミー・ジェームズ(後のジミ・ヘンドリックス)と親密になっていることを知った。

キースとリンダの関係はほとんど終わりかけていたが、リンダはジミがキースのホテルの部屋に自由に出入りするようにしてやり、リムジンも使わせ、新品の「ストラトキャスター」も貸し与えた。

ツアーは相変わらず衝撃路線を突っ走っていた。

シラキュースの戦没者記念講堂のステージの裏にあった星条旗をブライアンが盗もうとして騒動になった。

当時はベトナム戦争のさなかで、星条旗をおもちゃにしてただで済む時代ではなかった。

キースが「ばかやろう、ブライアンにかまうな」と叫べば、プロモーターは「てめえらこそ、とっととロンドンに戻って、のたれ死にしろ」と怒鳴り返した。

世間の風当たりの強さによって、キースとブライアンはエディス・グローブに置き忘れてきた世間に反抗する仲間同士という関係を取り戻していった。

「66年のあのツアーで、ある程度は仲直りしたということかな。俺たちは毎晩、最高のマリファナでラリってたよ」

「Have You Seen Your Mother」のジャケット写真撮りのために、ストーンズはニューヨークに飛んだ。

メンバーは大騒ぎで、女装をした。さすがニューヨーク、朝も早くからパーク・アヴェニューで女装してはしゃぎまわっている異形の群れに、眉をひそめる者などいなかった。

8月にロンドンに帰ったキースは、すぐにリンダの両親に電話をして、彼女のすさんだ生活を伝えた。

リンダの両親はショックを受け、父親は後見人として娘をロンドンに連れ戻すべく、ニューヨークに向かった。

8月24日、リンダはハムステッドの両親の元に戻る。

キースとリンダは話し合ったが、話が通じなくなっていた二人はそれで終わってしまった。

リンダは言う。
「別れた後で、キースから何度か伝言があったわ。『リンダに、失せろ!って伝えてくれ』とかなんとか。何年も続けてね」

――思いがけず、長いシリーズになってしまっていますが、後日に続きます。

ちょっとだけ追記。
先日あらためて、1966年2月13日のエド・サリバン・ショーに出演した時の映像を観ましたが、ブライアン、気のせいか顔色悪いです。きつかったのかな……。