街はクリスマスモードですね~
街中で見つけたクリスマス↓
part2の続きです。
太字部分がキースの発言です。
1962年12月、ディック・テイラーが抜けて、ビル・ワイマンが加わることになる。
ビル曰く、
「みんなは俺のことが気に入らなかったらしいが、俺はいいアンプを持っていて、あの頃のあいつらときたら喉から手が出るほどアンプが欲しかったんだ。だから俺を仲間にしたわけさ」
ビルが持っていたアンプのおかげでメンバーになったというのは、よく知られたエピソードですね。
キースによれば、
「やつ(ビル)は、ポマードべったりの髪に、ズボンの折り返しは30センチあったし、靴はゴム底の青いでっかいスウェード靴だった」。
しかし演奏を始めてみると、ビルは力強いスウィング感あふれるリズムを刻み、キースもこれなら乗れると感じた。
1963年1月には、チャーリー・ワッツがメンバーに加わることになる。
当時、チャーリーはギャラをもらい、他のバンドで演奏をしていたが、ストーンズのメンバーに心意気を感じ、またリズム&ブルースにも興味があったことから、ストーンズに参加することに決めた。
チャーリーは、いつも最新流行の服に身を包みながら、、昔ながらのジャズ・ファンという奇妙な取り合わせの人物だった。
他のロックのドラマーとは違い、純粋主義者であり、手首を使ってスネア・スティックで軽く叩くだけで、決して強打はしなかった。
キースは自らを、
「たぶん、一番ドラマーに影響を受けやすいギタリストだと思う」
と言い、他のドラマーと違い、チャーリーと組んでいると、
「突然、地面から10センチほど浮かんでいる気がしてくるんだ(それくらい高揚感があるということ)」
と言う。
しかし、ストーンズは他のバンドのように、ドラマーのリードについていくバンドではなかった。
ビルによると、ドラマーがリズム・ギター(つまりキース)に従って演奏しているのだと言う。
「たぶん性格の問題だろうが、とにかくステージではキースに従わなくてはならない。結果どうなるかといえば、キースとチャーリーと俺の間で刻み方がきっちりしなくなってくるんだ。俺たちらしいサウンドってのも、そんなところからきているのかもしれない」
なるほど。
ストーンズのコピーをしている方たちの参考になるかもしれない証言ですね。
チャーリーはまず、エディス・グローヴで何週間か暮らし、ブライアンとキースが演奏するのを聴き、彼らの生き方や影響にどっぷりと浸かった。
「バンドというより、ファミリーだった」
と当時について、チャーリーは語る。そして、
「このバンドは来年には店じまいだろうな」
とも思っていた。
ブライアンはマディ・ウォーターズのところのハーモニカ奏者、リトル・ウォルターのようにマウス・オルガンの演奏を覚えた。
1963年2月から3月には、ビートルズの人気が出始めていた。
「俺たちとやつらはまったく別だと思っていた。こっちはブルースをやっているし、向こうはスーツ姿でポップスを歌っていたんだからね。俺たちはポップ・スターにはならなかったことでイカしてたわけで、それだけが俺たちに残された誇りだった」
新しいバンドが求められ、次々とバンドが契約していき、アレクシスのバンドもレコード契約を交わした。
大物になったアレクシスはクラブでの演奏から引退し、その穴を埋める役目が、ストーンズにまわってきた。
「こうして俺たちはなんとか食べていけるようになってきた。そして観客を熱狂させ始めたんだ」
プロモーターのヴィック・ジョンソンは説明する。
「確かにブルースを演奏していたが、彼らは伝統にとらわれたブルース・バンドではなかった。ローリング・ストーンズは反逆以上の何かだったのだ」
3月になると、リッチモンドにあるジョルジョ・ゴメルスキーのクロウダディ・クラブで専属で演奏を始める。
二週間もしないうちに、客席は満杯となった。
これが縁で、マネージャーもつき、レコード会社とのコネができた。
ニック・コーンは次のように書いている。
「彼らは野卑で下品で、血気盛んで、すこぶる短気でもあり、それまでのイギリスのどんなバンドよりタフで乱暴で攻撃的な音をたたき出した。キース・リチャーズはTシャツを着ていた。しじゅう脚を曲げたり伸ばしたり、見苦しいところはまるで蟹のようだった。日和見主義で、典型的なおちこぼれだった。早い話、彼は少年院出身者そのものだったのである」
レコーティング・エンジニアのグリン・ジョンズの話。
「はじめて聴いたときは、こんなバンドは見たことない、素晴らしいと思ったよ。特に惹かれたのは、彼らがリズム・アンド・ブルースを演奏するスタイルだった。ミックのような歌い方をするシンガーにはお目にかかったことがなかった。(中略)
ちっともハンサムじゃなかったよ。それに、あの態度。信じられないほど反抗的で、ほんとに変わってたよ。彼らの見た目、服装、髪型がもう初めから変わっていて、彼らのそんな全てが、その演奏を見た途端、納得がいくんだ。それは社会全体やすべての人やすべてのものに対する完全なる抵抗だったんだ」
1963年5月、アンドリュー・ルーグ・オールダムがストーンズのマネージャーになった。
オールダムは、ポーカーの持ち札を換えていくかのように、バンドに手を加えていった。
まずは「ルックスが向いていない」という理由で、イアン・スチュアートがメンバーから追放され、ロード・マネージャーになった。
ブライアンは、自分がバンドのリーダーだという幻想から目を覚まさなくてはいけなくなった。
ミックは表看板兼セックス・シンボルと位置づけられた。
キースはリチャーズよりリチャードのほうがポップだということで、名字から「s」が削られた。
キースはロード・マネージャーになることを承知したイアン・スチュアートを「信じがたい心の広さを持っている」と思ったが、イアン・スチュアート本人は、「単に、それがおもしろそうだと思っただけ」だと言っている。
1963年9月、キースとミックはエディス・グローヴからロンドン北部ブロンドベリー、メイプズベリー・ロード33番地のフラットに移った。
ブライアンはウィンザー近くの女友達の実家に引っ越した。(当時つきあっていたリンダ・ローレンスの家ですね)
やがてオールダムはキースとミックが住むフラットに越してきて、3人は共同生活を始めた。
「ブライアンはオールダムを毛嫌いしていたが、誰よりもやつがバンドのためになることは認めていた。オールダムは、宣伝に関するかぎりは、タイミングよく最適な手を打った。それがどんぴしゃりと決まったんで、ブライアンも、コミュニケーションがない俺たちのバンドにはオールダムは必需品だってあきらめて了解したようだった」
キースは、オールダムを経済的に支援していたエリック・イーストンを気に入っていた。
イーストンはストーンズと契約を結ぶとすぐに、ロンドン郊外のダンスホールやクラブで一夜限りの興行を次々に行わせた。
一晩に3,4箇所のクラブで演奏する場合、一回45分の演奏が終わるとステージを飛び降りて車に飛び乗り、別の場所で演奏し、また二回目のショーのために戻ってくるという具合だった。
またこの頃、オールダムは偶然、ジョン・レノン、ポール・マッカートニーに出会う機会に恵まれ、2人はストーンズのために『アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン(彼氏になりたい)』という曲を提供してくれることになった。
ブライアンは、個性的な八弦のギター・プレイを披露した。
1963年9月末には、初めての国内ツアーに乗り出した。
一緒に宣伝ビラに名を連ねていたのは、彼らにとって最高のヒーローであったボ・ディドリー、エヴァリー・ブラザーズ、リトル・リチャードらだった。
ブライアンは楽屋でボ・ディドリーの『モナ』を死者をも生き返らせるほどエネルギッシュに演奏してみせた。
ボ・ディドリーは言う。
「イギリスではじめて契約した仕事だった。俺とブライアンとキースは、ジョッキ仲間になった。つまり同じジョッキで回し飲みする仲間ってことさ。みんないいやつで、兄弟みたいだったね」
ブライアンはまた、キースに思いきり殴られたこともある。
ショーの前に食べようと楽屋に用意しておいたフライド・チキンを、ブライアンがたいらげてしまっていたのだ。
「まったく、とんでもない野郎だぜ、てめえは。俺のチキンを食いやがって!」
オールダムの選んだ衣装(千鳥格子のジャケットとロード・ジョンで買ったシャツ)は、メンバーの、特にキースの癇にさわった。その衣装を脱ぎ捨てたとき、ストーンズのイメージがつかめてきた。
「オールダムが俺たちのイメージを作ったとみんなが思っているけれど、やつは俺たちをこぎれいにしようとしたんだぜ。元々はやつのやり方はお門違いだったんだ。あのジャケットで俺たちをダメにしかけたんだ」
1963年から1964年の春まで、オールダムは大人にも受け入れられるイメージのビートルズとまったく反対のイメージで売り出そうと考えた。
ストーンズをイギリスでもっとも汚らしいバンドと宣伝し、大人と若者を両極に分けてしまうような挑戦状をたたきつけた。
”ローリング・ストーンズのメンバーと娘さんが付き合っても平気ですか?”
そしてオールダムは格言を思いついた。
「ローリング・ストーンズはバントというより生き方だ」
ライターのニック・ケントがはじめてストーンズに出会ったのは、彼が12歳のとき、カーディフでの演奏を観たときだった。
「特にミックは怖がられていて、というのもあの唇だし、64年初めにはあんな長髪なんてちょっといなかったからね。ブライアン・ジョーンズが一番まともな中流階級って感じだった。完全にストーンズに参っていながら、同時にひどく怯えている女の子が5人ばかり楽屋にいたんだが、みんなブライアンのほうに行きながらも、目はミックの方をむいていて、そのミックは『さあさあ、俺と話したいんだろう。そのいやったらしい男と何の話をするつもりだい?』なんて顔をしてるんだ。キース・リチャーズはといえば、ビール瓶を片手にソファに伸びていて、写真を撮ろうとしたら、顔にげっぷをかけられる始末さ」
自分たちが成功すると思ったのは、この最初のツアーのときだったと、キースは言う。
ごく普通の若造だったのが、突然「いとしのキース様!」になったのだと。
オールダムの出現により始まった主導権争いは依然として続いていた。
「ブライアンは本当にポップ・スターになりたがっていた。それで突然、それまで自分のやりたいことにまじめに取り組んでいた彼が、お手軽な道を選ぶことにしたんだ。まったくやつは金髪の矛盾のかたまりだった。舞台の上でミックと対決できるなんて考えていたのは世界中でもやつだけだよ。『俺のほうがもてるんだ』とか言ってね。まったくあの自信ときたら」
キースとミックは辛辣な言葉をふりまくことで、他のメンバーを抑えていた。
ビルが攻略できないとなると、二人はブライアンに矛先を向けた。
いつもさらさらの髪でいないと気がすまないブライアンに「ミスター・シャンプー」というあだ名をつけた。
またブライアンがかかとの高い靴を履いてごまかしている短い脚や、太い首などの弱みも容赦なく指摘した。
チャーリーは、
「キースは、いわゆる関わりあいにならない方がいいというタイプだった。典型的な悪ガキ、優等生を目の仇にしている、よくいる悪ガキさ。だからこそ、やつが好きだったよ」
と言っている。
ブライアンがまとった鎧にヒビが入っているのを見つけたオールダムは、ブライアンが他のメンバーより週に5ポンド余計に受け取っているのをツアー中に暴露して、決定的なダメージを与えた。
キースは当時を思い出す。
「みんな相当頭にきてたね。『てめえ、死ね!』みたいなことばかり言ってさ」
結果的にブライアンは、ストーンズのリーダーという立場を失ってしまった。
キースはツアー1年目を「つらい勉強」だったと言っている。
「自分と観客のあいだに幕があったらなあってよく思ったものさ。俺は演奏したいだけで、ショーをやるつもりはなかったんだ」
――出会った頃は「魂の友」とも思っていたブライアンとキースの間に、一緒に活動していくうち、様々な感情が生まれてくることになったのですね。
と、いうところで、続きは後日。
コメント
こんばんは。お久しぶりです^^;ブログはちゃんと見てましたよ。るかさんは、はにわさんのオフ会には行かれますか?
こんばんは☆
見てくださって、ありがとうございます^^
はにわさんのオフ会、参加しますよ~
うさこさんも参加されますか?
だとしたら、お会い出来るのを楽しみにしています♪
ガーン;;渋谷でマリアンヌの映画やるんですよね><!それを見に行きたかったのと、池袋ではにわ氏のオフ会も参加したかったの;;。でも、池袋も迷ってしまいそうだし、誰も知り合いもいないし・・・;;あ~早くるかさんに聞いてみればよかった;;残念です。ブライアンのサインもはにわ氏に見せてもらいたかった。オフ会の感想を教えてー!
うさこさん、お会いできず残念でした;;
参加された方、皆さんいい方たちで、いろいろな貴重なお話も伺えて楽しかったです。
私みたいな初心者には、興味深いお話ばかりで。
(ブライアンのサインも拝見しました^^)
またオフ会の機会、あるかもしれませんし、そのときにはぜひお会いしたいですね。
それと、マリアンヌの映画、早速今日、観てきました!
あとでブログに書きます☆