寒いですね。
実感があまりないですけど、年末ですね。
今回は60年代後半から70年代前半にかけてキースと親交があったグラム・パーソンズについて書いてみます。
キースはグラムについて、
「グラムは特別な魅力を持っていた。格別な個性だったな。彼が部屋にいると、周りの人間がみな優しくなれる。ミック以外はね。ミックは出て行ってしまうのさ」
と語っています。
これを読むとミックがやきもち焼きで、自分とキースの間にグラムが入り込むことを快く思っていなかったというふうにとれます。
前にも書きましたが、ブライアンとミックとキースという3人が一緒に仲良く出来なかったのは、ブライアンのせいのように語られていることが多々ありますが、私は「本当にブライアンだけのせいなの?」と疑問に思っているのです。
他の2人にだって、3人では仲良く出来ない何かがあったんじゃないかなって。
キースの発言を参考にすると、ミックにその傾向があったように思えます。
確かにミックの友情というのは恋心に近いもので、それ故ミックを含めた「3人」で仲良くしようとすると不自然な形になってしまうということはあったのかもしれません。
一方で、キースとグラムの間には、誰も入り込めないような雰囲気があったという第三者の証言もあるのですが。
さて、それほどキースと気が合ったというグラム・パーソンズとは、どんな人だったのでしょうか。
ロックとカントリーの世界を結合させたグラムの生と死の物語は、実際の話とは思えないほど強烈だと語られています。南部育ちで金と酒に溺れた悲劇なのだと。
グラム・パーソンズ(生まれたときの名字は”コナー”)は1946年11月5日、ジョージア州ウェイクロスの裕福な家庭に生まれる。
1957年、故郷の町にきたエルヴィス・プレスリーのコンサートを見て、グラムの人生が変わる。
1958年、グラムが12歳の時、父親が自殺。
1959年、母親が再婚。これによって、グラムの名字が”パーソンズ”になる。
1960年~65年、バンドを組んで活動する。彼の目標は有名になること。
両親はグラムが16歳の時、彼が演奏できるようにクラブを買った。
学生時代のグラムにはカリスマ性があり、大勢の中でも目立っていた。
1965年6月、高校を卒業。母親がアルコール依存症で死亡。父親のボブが見舞った直後に亡くなったので、父親を疑う噂がたつ。その後、父親はベビーシッターだったボニーと再婚。
9月、ハーバード大学に入学。それまでフォークをやっていたグラムはカントリーに目覚める。大学はほとんど出席せず、退学する。
1966年、ニューヨークに移り、インターナショナル・サブマリン・バンドを結成。LAに移り、史上初のカントリー・ロック・アルバム”セーフ・アット・ホーム”を録音。
1968年、ザ・バーズのベーシスト、クリス・ヒルマンと出会う。グラムはザ・バーズに加わりアルバム「ロデオの恋人」に大きく貢献する。
夏、ストーンズのキースとミックに出会う。ザ・バーズの南アフリカ・ツアーの不参加を決め、バンドでの活動を終える。
(グラムはキースから南アフリカは人種差別が激しいところだと聞いて、行くのをやめたという。しかしクリス・ヒルマンはグラムが行かなかったのは人種差別のせいではなく、グラムがキースと一緒にいたかったためだと言う。メンバーには空港に行く2時間前に「行かない」と告げた。)
1969年、仲直りしたクリス・ヒルマンとフライング・ブリトウ・ブラザーズを結成。アルバム「黄金の城」を制作。彼らはヌーディ・スーツをきて演奏した。
後にオルタモントの悲劇と言われたフリー・コンサートでストーンズの前座をつとめる。ストーンズと過ごす時間が長くなったグラムは、リハーサルもしなくなり、ステージには酔って酷い状態で現れた。
(グラムの実家は裕福で年間およそ5万5千ドルの信託財産があったので、金銭的悩みはなかった)
1971年、フライング・ブリトウ・ブラザーズから解雇され、南フランスのキースの別荘に行き、思う存分一緒に過ごした。当時ストーンズは「メイン・ストリートのならず者」を制作中。
グラムとキースは一緒に演奏し続け、2人の間には誰も入れない状態だった。
その後「また会おう」と言ったきり、キースは二度とグラムに会うことはなかった。グラムはドラッグをやめるつもりだったという。
ニューヨークにて、恋人のグレッチェン・バレルと結婚。
1972年、初のソロアルバム”G・P”に収録する曲を作曲。女性シンガー、エミルー・ハリスにアルバムへの参加を依頼。
1973年、2枚目のソロアルバム「グリーヴァス・エンジェル」を制作。
9月19日、レコードの完成を祝うためお気に入りの場所カリフォルニアのジョシュア・トゥリー国立公園へ出かけ、アルコールとドラッグの過剰摂取により死亡。享年26。
1974年1月、アルバム「グリーヴァス・エンジェル」発売。
グラムが亡くなった後の展開が、現実とは思えないです。
ザ・バーズの名ギタリスト、クラレンス・ホワイトが事故死した葬式で、グラムは、自分が死んだら「静かなジョシュア・トゥリーの砂漠に運んで欲しい」と話したそうです。
グラムの死後、それを友人だった(ロード・マネージャーもつとめたことがある)フィル・カウフマンらが実行しました。
葬儀のため運ばれる遺体を盗み出し、グラムが好きだったジョシュア・トゥリーに運んだのです。
移動の道すがら、ガソリンを買い込み、彼らはジョシュア・トゥリー国立公園に運んだグラムの遺体にガソリンをかけ、火を放ちました。
しかし、中途半端な火葬だったため、遺体は一部が焼けただけで砂漠に置き去りにされ、15キロほどになってしまった遺体は、あらためて故郷ニューオリンズに埋葬されました。
コッチフォードに埋葬されたいと言っていて故郷に埋葬されたブライアン、イギリスに埋葬されたいと言っていて故郷に埋葬されたジミ・ヘンドリクスを思い出してしまいます。
グラムとキースは兄弟みたいに一緒にいたそうです。
キースの証言↓
「グラムは穏やかな男で、癒す力があった。人に影響を与える。本人も知ってた。たぶんその力で、何人かは救ったと思う。社会に見離された人たちをね。彼は堂々としてたよ」
ロン・ウッドに対しても同じようなコメントをしていませんでしたっけ?
キースが好ましく思うタイプなのでしょうね。
初期の頃のグラムは、ひたむきでよく練習していたそうです。
だんだん、アルコールとドラッグ漬けになっていくのですが。
ブライアンはグラムと会っていたでしょうか。
顔を合わせるくらいはしていたでしょうか。
グラムは、それが悲劇的な家庭であったとしても、基本的に育ちがいいお坊ちゃまだったように、私には思えます。
重苦しく思うことがあっても、家柄にしばられて、影響を受けていたのだと。
優しいけど、自分勝手で、甘えん坊で、大人になりきれず子供っぽい部分を持ち続けていて、
アルコールとドラッグに頼らなければいられないほど、精神的苦痛を抱えていた。
……こういうふうに考えてみると、ちょっとブライアンに似てますね。
今回はこの曲で締めましょう。
「Wild Horses」、
最近、スーザン・ボイルのカバーで話題になりましたが、グラムもカバーしています。
グラムはキースにWild Horsesを歌いたいと言い、キースは、
「”ワイルド・ホーシズ”をグラムが録音したいと。俺は、いいよと」
と答え、ストーンズの曲を歌うグラムは誇らしげだった、そうです。
グラム・パーソンズの「Wild Horses 」、染み入るような歌声です。
Wild Horses – mvid tribute to Gram Parsons