part10の続きです。
太字がキースの発言です。
このブライアンとキースのブログは、最初に思ったとおり、ミックの時ほど悩むことなく書けてます。
あ、そういえばミックがブライアンのことを語っている雑誌記事を見つけたのですが、また後日、紹介したいと思います。結構、興味深かったです。
1966年秋、ストーンズは3年間のツアー生活で燃え尽きていた。
ブライアンは神経衰弱でダウン寸前、ミックはクリッシー・シュリンプトンとの別れ話でもめてノイローゼの治療を受けていた。
マネージャーのアンドリュー・オールダムも病院に通い、たくさんの薬を処方されていたが、自分をコントロールすることができなくなっていた。
キースはリンダとのことで、とても傷ついていた。
――ここでアニタ・パレンバーグの登場となるわけですが、part9で書いたので、ここでは軽く触れるだけにとどめておきます。
アニタのキースに対する印象。↓
「初めて会った時のキースは、恥ずかしがり屋で、自分の殻から出てこられない少年みたいだった」
ほとんどの友人たちは、この時期のキースがガールフレンドを連れ歩いているのを見た覚えがないという。
「彼は一人ぼっちだった。でもあの頃の俺たちはLSDをがんがんやって、いつも一緒だったから、いわば仲良しごっこみたいなもので、すべてこれでよし、なんてお気楽なものだったよ。キースはいつでもおもしろい男だった」
とジョン・ダンバー(マリアンヌ・フェイスフルの最初の夫)は当時を振り返る。
マリアンヌ・フェイスフルはキースに惹かれ一夜を共にしたが、翌日キースから、ミックがマリアンヌに恋しているから、このことを絶対にミックに知られてはならない、と告げられた。
10月、キースはブライアンとアニタのフラットに移った。
ロバート・フレイザーやマイケル・クーパーも加わって、毎日のようにロンドンあたりを遊びまわり、週末には高速道路のM1をぶっ飛ばして田舎に行き、LSDやコカイン、ハシシをやりながら荒野を彷徨った。
アニタはブライアンとキース、二人の男を虜にしていたが、キースは慎重に振舞っていた。
「アニタとのことがあったから、ブライアンとまた友だちになる決心をするかどうか自分の気持ちを確かめる必要があったんだ。正直なところ、半々というところだった。もちろん当時のおれは彼女を気に入っていた。誰だって、見たとたんにそう思うはずさ。でもこのブライアンとのいい関係をぶち壊しにしたくはなかった。それじゃ話の筋が違うんだ。おれたちはいい友だちだったんだよ」
――ブライアン、もっと警戒心を持っていればよかったのに、大らかというか、ノンキですね……。
たぶんブライアンは、キースとアニタが惹かれあってることに気付いていなかったと思うので。
二人を信じきっていたのかもしれないですが。
まあ、こういうところが、ブライアンのいいところでもあるのだと思います。
ブライアンとキースは、こうした雰囲気の中で、曲を作っていった、とトニー・サンチェスは回想する。
11月、二人はオリンピック・スタジオで「Ruby Tuesday」を共作した。
キースは基本となる演奏部分の録音と歌詞を用意してスタジオ入りした。
二人は何日もかけて、その基本のトラックに最新の演奏を重ねていった。
ブライアンは、自分とキースが、
「曲のあちこちに色を加えたり、ドラマティックだけどさりげないタッチを加えたり、リード・ヴォーカルとバック・コーラスのバランスを変えたり、珍しい楽器の演奏を加えたりと、いろいろ工夫に工夫を重ねた」
とおもしろそうに語ることになる。
この共同作業で、キースとブライアンのコンビでも曲が作れることがわかった。
ミックはこの制作に加えてもらえず、一人、レコーディング・エンジニアの部屋で作業をしていた。
――ブライアンはキースと一緒に曲作りができて、嬉しかったでしょうね。例えクレジットに自分の名前がなくても。
ミックは「”Ruby Tuesday”の制作には関わっていない」と自ら言っているので、この曲がキースとブライアンの共同作業によるものだというのは、確かなことなのでしょう。
アニタとのことがなければ、この後もブライアンとキースの共同作業による曲が聴けたかもしれません……。残念。
「ブライアンはミックに復讐を始めていた。ブライアンはミックとおれの両方がいる場所ではうまく生きていけなかったんだ。『ミックを呼ぼうか?』と言えば、『いや、いらない』とやつは言ったものさ。それにものすごい告げ口魔でもあった。くすくす笑いながら告げ口をするんだ」
――”くすくす笑いながら、告げ口をする”……、どうなのでしょう?
ブライアンが悪意を持って、くすくす笑いながら、告げ口をしていたのか、実際に見てないからわからないです。
ある人から見たら、嫌な感じに見えても、本人はそんなつもりはないとか、別の人から見ると、そんなに嫌な感じじゃないっていうこと、ありますものね。
キースから見たら、嫌な感じだったのかもしれませんが。そして、その感想がこうして文字になると、「ブライアンって嫌なやつだったんだなあ」って思えてしまいますが、事実は決め付けられないと思います。
12月5日から8日まで、ストーンズがロサンゼルスでレコーディングをした後、ブライアンとキースとアニタは休暇に入り、ドラッグを調達し、危険なワッツ地区をうろつきまわった。
プレス・エージェントのトニー・ブロムウェルによれば、
「彼らに初めてリッチモンドで会ったときには、どちらもカッコいい若者だったのに、今はボロボロさ。確かにブライアンは素晴らしいミュージシャンだったかもしれない。しかし街で会ってみれば、すっかり世間の風潮に染まっていた。ブライアンもキースも60歳の老人みたいに見えた。二人とも20代の老人だった」
という。
二人の無軌道な生活について、ミックは、
「これから先どうなるのか、見当もつかない」
とドナルド・キャメルにこぼしている。
――うーん、メチャクチャやってるようでいて、実はいつもどこかクールなミック。
12月18日、ブライアンの親友だったタラ・ブラウンが交通事故で亡くなり、ブライアンはすっかりうちひしがれていた。
同じ日、クリッシー・シュリンプトンがミックのフラットで自殺を図り、ミックはこれが手を切る潮時だと考えた。
ミックはクリッシーに、マリアンヌ・フェイスフルとこの一ヶ月内緒で付き合っていたこと、クリッシーの生活費を負担するのはやめにしたことを告げた。
キースは定期的に別れたリンダ・キースが恋しくなる病にかかっていたが、クリスマスに超豪華なジョージ五世ホテルでパリの友人と5日間に渡るドンちゃん騒ぎをしたのをきっかけに、これを吹っ切った。
そしてリンダとの関係が完全に終わったのを悟った。
1967年1月13日、「Let’s Spend the Night Together」「Ruby Tuesday」が全世界でリリースされた。
エド・サリバン・ショーでは、「Let’s Spend the Night Together」の歌詞を”Let’s Spend some time Together”と変えて演奏した。
一週間後のサンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディウムでは、番組最後に出演者全員が回転ステージの上からテレビの視聴者に向かって手を振りながら挨拶をする、というのを拒否した。
「アホらしい。おれたちはストーンズなんだぜ。あれじゃミッキー・マウスのショウビジネスさ。子供の時間の終わりじゃあるまいし、みんなが手をひらひらさせたからって、俺たちまでするとは限らないのさ」
1月20日、アルバム「Between the Buttons」が全世界で発売された。
これはイギリスのヒットチャートで3位、全米ヒットチャートでは2位までいくことになる。
ある批評家は、
「間違いなく彼らのベスト・アルバム」
と言い、また別の批評家からは、
「”Aftermath”の下手な二番煎じ」
だと言われた。
1967年初頭、ブライアンは初めてストーンズ以外の仕事に取り掛かっていた。
アニタが出演するドイツ映画「A degree of murder」のサウンドトラックの作曲と録音を始めていたのだ。
キースは、ブライアンとアニタのフラットを離れてレッドランズで過ごすことが多くなっていて、毎週ホーム・パーティーを開いては、ブライアンのフラットで知り合った仲間たちを招いていた。
キースはまだブライアンに親近感を抱いていたので、2月8日には、ブライアンとアニタと共に、ミュンヘンに飛んで、映画のセットを訪ねた。
そしてキースは同時に、マリアンヌに間に入ってもらって、ミックとの友好回復にも努めていた。そろそろ二人でアルバム作りを再開する時期が来ていた。
――好き勝手にやっているようでいて、キースもちゃんとストーンズのことを考えていたのですね。
たぶんキースは、うまくやっていけないミックとブライアンの間に入って、バンドに亀裂が入らないようにと考えて行動していたのかもしれません。
ミックとの関係はマリアンヌに間に入ってもらって。
ブライアンとのいい関係も壊したくなかったから、アニタに惹かれる気持ちを抑えるようにしていた。
そう考えると、やはりよく言われているように、アニタがブライアンを捨て、キースの元に走ったというのがブライアンとストーンズの間に大きな亀裂を作ることになったのでしょう。
続きは後日。