ブライアンとキース・リチャーズ part7

毎日寒いですね~。

週末のヒトコマ。クリスマスは終わったというのに、クリスマスっぽい雰囲気。

この街、結構好きです。

それと、「音たち 言葉たち」の更新報告。

Right Now! 」(BGM付)。よろしかったら、どうぞ。

そういえば、以前更新した「もうなにも」ですが、もしかして音楽がきちんと再生されるようになっていないかもしれません;

自分のパソコンだと音楽がきれいに流れるのですが、他のパソコンからアクセスしてみたら音楽が流れなかったので。

もしかしてファイルが重過ぎるのかもしれませんが、原因不明です。すみません<(_ _;)>

ステキな曲なのに~;;(曲をお借りしてるのに、申し訳ない……)

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part6の続きです。
太字がキースの発言です。

時間の流れが前後して申し訳ないのですが、part6の1964年6月のアメリカ・ツアーよりも前に遡ります。

メイプズベリー・ロードに移って以来、キースとミックは過去にブライアンから吸収できるものはすべて吸収したように、今度はアンドリューから何でも吸収しようとした。

1963年の夏、アンドリューはキースとミックに曲を作るように命じた。

ビートルズは自分たちで作曲していたが、ストーンズはカバー曲が多かったのだ。

アンドリューは、
「いつまでもカバー曲ばかりやってられないぞ。素材も、もう一枚か二枚のアルバム分くらいはあるかもしれないけど……、やる曲がなくなっちゃうよ。君らで書けよ」
と助言した。

アンドリューは公平を期するために、ブライアンにも作曲を勧めたそうだ。

自分を根っからのギター・プレイヤーだと思っていたキースは、
「そんなのおれの仕事じゃないぜ」
と言ったが、アンドリューはキースとミックをキッチンに閉じ込め、
「曲が出来るまで出てくるな」
と言った。

仕方なく一晩中キッチンに篭って、やっと仕上げたのが、「As Tears Go By」(当初は「As time goes by」というタイトル)だった。

――この曲を作ったのは1964年と記述されているものもある。二人がキッチンに閉じ込められたのは、1963年? 1964年?

でも1stアルバムがリリースされたのは1964年4月で、それにはキースとミックが作った「Tell Me」が収録されていて、「As Tears Go By」がそれより更に前に作られた曲だとすると、やはり1963年説が強いように思います。

しかし、そもそも初めてキースとミックが作ったのは「As Tears Go By」で間違いないのでしょうか?

レコーディング・セッションには「It Should Be You」という曲が2人の初挑戦とされていて、またこれは最もきれいに忘れられた曲でもある、と紹介されているのですが。

アンドリューは「As Tears Go By」をマリアンヌ・フェイスフルに歌わせ、大ヒットになった。

「プレイすることと曲を作ることは、違いがあるように俺には思えたんだよ。今では、ミュージシャンはみな作曲家だということを理解している」
と言い、曲を作ることを勧めてくれたことを、
「(アンドリューに)一番感謝している」
と言っている。

「As Tears Go By」は、全くストーンズらしくない曲だったが、マリアンヌが歌いヒットしたことによって、キースとミックはソング・ライターになった。

だが、積極的に彼らがストーンズの曲を書くようになるのは、その数ヶ月後だった。

やがてキースとミックが書いた「That Girl Belongs To Yesterday」をジーン・ピットニーが歌い、イギリスのヒットチャートの7位までいった。(お~、以前紹介した「let’s go get stoned!」というアルバムに入っている曲ではないですか!)

「Tell Me」はストーンズのファーストアルバムに収録され、アメリカで発売された2枚目のシングルだが、全米ヒットチャート24位になった。

それでもキースは、作曲活動はグループ活動のおまけで、
「そんなことばかりやるのは、真っ平ごめんだ」
と思っていた。

しかしキースとミックが共同作業で作曲するのが既成事実となり、何度か挑戦しているうちに、作曲は二人が組んでやるのにピッタリの仕事だとわかってきた。

「自分たちに2,3曲ヒットがあるというのがどういうことなのか見えてくると、『努力を続ければ、きっとうまくいく』と思うようになる。それで、前向きにがんばることにした」

ミックは、
「最初からキースにはすごい作曲の才能があった。リフも含めて、全部メロディーはキースから出てきたものだ」
と語っている。

1964年夏に、マリアンヌ・フェイスフルが「As Tears Go By」を録音したとき、彼女はストーンズのメンバーを鋭い観察力で見ていた。

「おぞましい人たち、汚くて、臭くて、にきびだらけ」

レコーディングは30分ほどで終わったが、誰も口をきいてくれず、帰りも車にさえ乗せてくれなかった。

そんなマリアンヌは、次第にキースに惹かれていった。

「キースはどこか不安定で、とても内省的で直感的な面もあったけれど、これはアーティストにとってはとっても必要な資質だし、なくてはならないものだわ。私が感じたのは、ごく自然な尊敬の念だわ。彼を理解しようとしたり、仕事をしているのを見たりしているうちに、彼が作ろうとしている曲や、音楽を実に鋭く把握している理解力などに、彼のそうした一面が見えてきたの。だからこそキースはブライアン・ジョーンズが好きなんだ、とも思った。二人ともそうした面を持っていたからよ」

――マリアンヌは当時、キースとブライアンに共通点を見出していたのですね。

ブライアンとキースとミック、この3人、それぞれが超個性的のようでいて、少しずつ似たところがあるみたいです。

キースとミックは、お互いを必要としている以外は、あまり似ているところはないかもしれませんが、こうしてブログを書いていると、ブライアンとキースに、なんとなく似ている部分を見つけたり、ミックとブライアンにも似ているところがあるように感じたりしています。

そういえば、ミックのブログで書きましたが、映画「パフォーマンス」の役作りで、ブライアンとキースを交ぜて演じたら、元のミックとそれほど変わらないキャラクターになった、なんていうのもありましたし。

不思議な三角形です。

そして、マリアンヌが最初、ミックよりもキースに惹かれていたというのは、結構知られているエピソード。

マリアンヌにしろ、アニタにしろ、ミックよりもブライアンよりもキースに惹かれるというのは、キースにはそれだけの魅力があるということなのでしょうね。

でも、なんとなくわかるような気がします。

キースって、器が大きそうなイメージがあります。

一緒にいて、安心できそうな。

と言いながら、もちろん私はブライアンのファンですけど!

9月になると、「As Tears Go By」は、イギリスでトップ10入りを果たした。

10月23日にストーンズは二度目のアメリカーツアーに出て、この間、ブライアンにはいろいろな心の動きがあったようですが、そのことは「ロック・スターの女たち リンダ編」に書きましたので、参考になればと思います。

ちなみにブライアンは、このツアー中、体調を崩し、数回のショー(11月11日~15日)はブライアン抜きで行われた。

ツアーの最初から体調が悪かったのが、ツアーがすすむにつれ、どんどん悪化していったのだ。

11月17日にロンドンに戻ったとき、まだ調子が悪かったブライアンは、直ちに医者に駆けつけた。

同11月、ストーンズは「It’s All Over Now」に続くシングルとして、「Little Red Rooster」をリリースした。

この曲はイギリスのヒットチャートを一気にトップに駆け上った。

同じ頃、「Tell Me」がスウェーデンとデンマークで1位に、また「Not Fade Away」がギリシャで1位、「It’s All Over Now」はデンマークでトップ10入りし、ドイツ、オランダ、スウェーデンでは1位になった。

キースとミックは「The Last Time」の仕上げに取りかかった。
「『ザ・ラスト・タイム』(1965年2月リリース)は、正直に言うと、ステイプル・シンガーズが歌っていた古いゴスペル・ソングなんだ。著作権がもう消滅していてね。その曲をちょっとアレンジしただけなのさ」

――へ~~~っ。初めて知りました。「ザ・ラスト・タイム」って全くのオリジナルというわけではなかったのですね。

1964年12月には、アメリカでの2枚目のアルバム「12×5」がチャートの3位に躍り出た。

1964年のストーンズは、イギリス国内でのツアー5回、全米ツアー2回、ヨーロッパ・ツアー2回をこなしていた。

12月半ばにはキースとミックが作った「Heart Of Stone」が、アメリカでの5枚目のシングルとしてリリースされ、20位までいった。

1965年1月、イギリスでの2枚目のアルバム「The Rolling Stones NO.2」がチャート1位になった。

2月18日には、ロサンジェルスのRCAスタジオで「The Last Time」のレコーディングの仕上げを行った。

このレコーディングは1月17日、18日にも行われていて、その際には「プレイ・ウィズ・ファイア」が一緒にレコーディングされたが、メンバーではミックとキースしか参加していない。

ジャック・ニッチェがパーカッションとハープシコード、フィル・スペクターがズームベースとアコースティック・ギターを弾いた。

他のメンバー(ブライアン、ビル、チャーリー)はスタジオで眠りこけていたのだ。

「たぶん64年に吹き込んだ曲の6、70%はアメリカでの録音だったと思うし、65年になると、全部アメリカで、そうだな、ロサンジェルスかシカゴでやったはずだ」

録音を担当したデイヴ・ハシンジャーの記憶では、スタジオでの決定はすべてミックとキースが行い、他のメンバーは表面的な関わりあい方しかしていなかった。アンドリューももちろん、2人に決定権をゆだねていた。

スタジオでの責任者は今やキースとミックであり、キースがバンドのプロデューサーであるのは暗黙の了解事項だった。

ハシンジャー曰く、
「演奏が終わると、全員の視線がキースに注がれ、キースがにっこりしていれば、このテイクは成功ということになるのだ」。

キースは思いついたリフをテープにとってみることもあったが、たいていは頭のなかのテープレコーダーに頼るだけだった。こうした曲を引き出すのに、明らかにミックが必要だったのだ。

二人は膝を突き合わせて古いブルースを弾いてみては、自分たちの曲作りに取り組んだ。

しかし、ミックとキースが曲の著作権を独占し、多額の印税を得ているのに、ビル・ワイマンは不満をもらしていた。

――こうしてストーンズの中心から、ストーンズの曲作りから、ブライアンははずれていってしまったのですね。

ブライアンだって曲作りはしていたと思うのですが……。

レコーディングの主導権もキースが……。

「船頭多くして船山に上る」(船頭が多くては指図の統一がとれず、船は山にぶつかる)という諺の通り、みんなで意見を言い合ってもまとまらないので、ブライアンは一歩下がっていたのかもしれませんが。

後日に続きます。

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