ブライアンとキース・リチャーズ part1

ブライアンのことを知るため、当時ブライアンのまわりにいた人たちについても書いていこうと思い、何人かの人たちについて書いてきましたが、
「ここではずせないのは、やはりストーンズのメンバーでしょう」
ということで、少し前には「ブライアンとミック・ジャガー」というタイトルで、ミックのこと、ミックとブライアンの関係を、悩みながら、私なりの解釈を書きました。

このとき既に、
「キースのことも書きたいな」
と思っていたのですが、いよいよ、その時がきました!(と力入れすぎることもない;)

「書けるのだろうか?」
と不安になりつつも、書き始めてみたいと思います。

忙しい時期ゆえ、更新も滞りがちになると思いますが。(いつものことですけど;)

キースとの関係は、ミックとの関係ほど、複雑ではないはず、です。たぶん。

ブライアンの死後、キースのブライアンに対する発言は辛辣なものが多いのですが、これは彼の本音なのでしょうか?

ブライアンの生前から、彼らの間には(アニタのこと以外の)確執があったのでしょうか?

今はまだ理解できていない私なのですが、ミックの時のように、書き終える頃にはなにかが見えてくることを期待しています。

同時に、ブライアン、ミック、キース、3人の間にあったのは、どういう感情だったのかも、少しでも理解できるのではないかと期待しています。

まず、キース関係の本を読んでいて思ったのは、本人たちも言っているように、ミックとキースは正反対のものを持っているっていうことです。

それを念頭においてから、始めたいと思います。

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第二次世界大戦のさなかの1943年12月18日、空襲警報が鳴り響く中、ケント州ダートフォードのリヴィングストーン病院で、キース・リチャーズは誕生した。

母親はドリス・デュプリー・リチャーズ(33歳)、父親はバート・リチャーズ(36歳)。

27年間の結婚生活で授かったのは、キースだけだった。

あれ? ここでいきなり疑問。

以前、紹介した「Q&A」では、キースは9人兄弟と答えていましたが、実は一人っ子だったのでしょうか?

何故、そんな嘘を??

それとも、このQ&Aがミスプリントだった?

すさまじい十字砲火の中で生まれたキースは、
「戦争のことはなにも覚えていないが、あのサイレンの音だけは忘れられないね。今でも、テレビで昔の映画をやっていて、サイレンの音が聞こえたりすると、首筋の毛がざわざわっとなって鳥肌がたつ」
という。

戦後、リチャーズ一家は社会の下層階級と中流階級の間を行きつ戻りつしながら居心地の悪い生活を送った。

父親のバートはロンドンのハマースミスにある電気会社の工場に現場主任として勤務していた。

「おやじはおやじのやり方で、21かそこらから、ずっとあの世界で働いていたんだ。非常に厳格で、絶対に酔っ払わず、いつもきちんとしていて、いつもいらついていてさ。うちは家賃を払うので精一杯だった。おやじは家賃を払い続け、家族を食わせていくために、しゃかりきに働いた」

キースが幼い頃、バートは息子をダートフォード・ヒースにサッカーをしに連れて行ったりしていたが、少し成長してからは、毎日決まった時間に起床し工場に行き、帰ってきてもむっつりしていて誰も寄せ付けようともしない、キースにとって「近寄りがたい父親」になっていた。

母親の家系は芸術家揃いで、キースが特に影響を受けたのは、母親の父親(つまりキースにとっては祖父)のガス・アンガタス・セオドア・デュプリーだった。

「じいさんとばあさん(ガスと妻のエミリー)には娘が7人いて、家中いつも音楽や芝居っぽい雰囲気でいっぱいだったらしい」

ガスはサックス・プレイヤーであると同時にパン職人だったが、第一次世界大戦で毒ガス攻撃に遭い、肺を悪くして、サックスを吹くこともパン工場で働くことも出来なくなってしまった。

それで、バイオリンやギターやピアノを弾くようになり、バンドを組み、50年代になってからもイギリス国内のアメリカ軍基地で演奏していた。

6人の叔母に囲まれ、甘やかされて育ったキースは、サッカーや取っ組み合いをするよりも、家にいて絵を描いたり、本を読んだりしているほうが好きな子供になった。

1951年9月に幼年学校を卒業し、ウェントワース初等学校に通い始めた。

そこで同じ学校に通うミックに出会うが、当時は顔を知っているくらいで、それほど親しい友だちというわけではなかった。

1954年、リチャーズ一家はチャスティリアン・ロード33番地からスピールマン・ロード6番地にあるテンプル・ヒル公営住宅に移った。

住み慣れた地を離れることになったこの引っ越しは、キースにとっては怖ろしい経験だった。

「町の反対側のはずれっていっても、あの年頃の少年にとっちゃ、月にでも行くに等しいことだったよ」

1955年、引っ越しのショックから1年後、キースは11歳試験を受けることになった。
これは国が厳格な階級差を保持しておこうと71年まで実施していた制度であり、11歳の子供の将来が点数によって決められていた。

得点順に生徒はグラマー・スクール(大学進学準備の公立中等学校)か、技術修得のためのテクニカル・カレッジか、実用科目重視のセカンダリー・モダーン・スクールかに振り分けられた。

試験の結果、キースはダートフォード・テクニカル・カレッジに進むことになり、彼より裕福で周りからの期待も大きかった学友ミック・ジャガーはグラマー・スクールに進学することになった。

以来6年間、2人は顔を合わせなかった。

キースが12歳の頃、ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリーら、ロックンロールの最初の波が押し寄せた。

引っ越しをしてから初めて、キースに生きがいができた。

「本当に新しい時代に生きているんだって強く感じてたね。ロックンロールが世界を変えたんだ。人間の考え方を根本から変えたんだ。まるで紀元前と紀元後っていう感じで、1956年が紀元一年というわけさ」

引っ込み思案だったキースは学校の聖歌隊でスター的存在となり、ロンドン・フェスティバル・ホールで歌声を披露する機会を何度か持ち、若き新女王エリザベス二世の戴冠式では、ヘンデルの「メサイア」の中から「ハレルヤ」を歌った。

ところが14歳になり、声変わりが始まると、聖歌隊から放り出されてしまった。

キースはこの処置をひどく恨み、父親バートによると、
「あれ以来、あいつは一匹狼になった」
という。

一方、父親バートとの関係は緊張の度を高めていった。

バートは音楽にも酒にも人付き合いにも興味がなく、キースが父親に誉めてもらえるとすればスポーツしかなかったが、キースは父親を失望させるばかりだった。

「運動は苦手だったけれど、教室を飛び出して屋外でやるのはよかった。でもラグビーとなると、ついていけなかったんだ。俺には激しすぎたよ。試合に勝つためだけに、友だちに体ごとぶつかっていって、それで怪我をするかもしれないなんて、まるで無意味に思えた」

ん?
同じような発言をティーンエイジャーの頃のブライアンもしていませんでしたっけ?

その気になれば、スポーツは得意なのに、「無意味に思える」って言って、選手に選ばれたりすると、仮病を使ってサボっていたって。

ちなみに母親ドリスの発言、
「あの子(キース)は基本的には、とても内気な子なんです。ドラッグだって、ステージに立つ自信をつけるためにやっていることでしょう」
なんていうあたりも、ブライアンとちょっと似ているような気がします。

キースには、学校がまるで自分に向いていないものに思えた。

あまりの成績のひどさに3年生をもう一度やることになり、その後も更に2年間は学校に通ったが、結局卒業はしなかった。

14歳になる頃には、キースは定期的に祖父のガスのもとを訪ねるようになっていた。

ガスのギターはいつも置物のようにピアノの上にあった。

ある日、キースは勇気を出して、ギターに触ってもいいかと聞いた。

ガスは基本的な弾き方をキースに教え、キースはつっかえつっかえ「マラゲーニャ」を弾いた。

「ひどい出来だったと思う。でも、いつも『うまい、うまい!』って言って、俺の演奏が気に入ったふりをしてくれるんだ」

うーむ、誉め言葉は才能を伸ばす、というものですね。

キースのギターに対する情熱の目を開かせたのは、キースのおじいちゃんだったのですね。

ステキなおじいちゃん、ガスに拍手。パチパチ。

1959年、キースは通っていた学校を退学になったが、校長が絵の才能を認め、シドカップ・アートスクールに入れるよう、手配してくれた。

1959年から1962年までの間に、ジョン・レノン、レイ・デイヴィス、ピート・タウンゼント、ジミー・ペイジ、ロン・ウッド、デヴィッド・ボウイらがイギリスのアートスクールに入学、あるいは在学、あるいは卒業していた。

ほとんどどこのアートスクールにも、将来ポップ・ミュージシャンの第一世代となる人物が一人はいた。

キースが通うアートスクールには、ディック・テイラー(ストーンズの原型となるバンドで活動した後、60年代の有名バンドのひとつであるプリティ・シングスを結成)も通っていた。

キースは母親のドリスに頼んで、ギターを買ってもらい、ギターに恋したように何時間も弾き続けた。

父親のバートは「あの騒音をやめさせろ」と文句を言ったが、母親のドリスは息子には才能があると思ったという。

キースにとって自宅がリハーサル・スタジオなら、アートスクールは実験室になっていた。

そしてキースはチャック・ベリーの音楽に惹かれていった。

「俺にとってチャック・ベリーのように弾くのが、一番自由で刺激的だった」

キースは知らなかったが、ディック・テイラーはキースと組む一方で、グラマー・スクールに通うミック・ジャガーともバンドを作っていた。

他のメンバーは、ミックと同じ学校に通うボブ・ベックウィズとアラン・イザリントンで、バンド名は「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」。

チャック・ベリーやその他の黒人のブルースをレコードで聴いたとおりに再現しようとしていた。

ストーンズの話をするときに、ミックとキースを中心として考えると、ダートフォードから物語が始まりますが(ブライアンファン目線では、チェルトナムから始まる)、いよいよ伝説(?)のキースとミックの再会です。

1961年の春のある朝(あれ? 春? ミックのブログでは12月と書いたのですが)、アートスクール2年生のキースは通学途中、ダートフォード駅で旧友のミック・ジャガーに会った。

ミックはその頃、音楽を仕事にしようとは考えてはいず、ジャーナリストか外交官になるため、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに進むための勉強をしていた。

キースの目をひいたのはミックが抱えていたレコードだった。

「The Best Of Muddy Waters」と、チャック・ベリーの「Rockin’ at the Pops」。

どちらも当時のイギリスでは入手できないもので、ミックがシカゴのチェス・レコードから取り寄せたレコードだった。

ブルースという共通の趣味が2人を結びつけ、キースはその午後にはミックを自宅に誘っていた。

「やつ(ミック)がいろいろ聴かせてくれたけど、マディ・ウォーターズになったらピンときたんだ。彼こそ俺が求めていたもの、俺の中のすべてをまとめあげてくれるものだった」

別れ際にミックが言った。
「俺たちのバンドに来いよ」

2人は性格の違いを補うことで、親しさを育んでいった。

戦前ならば、キースのような労働者階級の少年が、ミックのような中流階級の家庭に快く迎え入れられるはずはなかったが、当時の若者たちの間には階級差に抵抗する姿勢が芽生えていた。

友人の一人は言う。
「キースに比べたら、ミックはまるでとらえどころがなかった。キースといるのはとても楽しかったよ。やつには構えたところがなかったし、いつも機嫌のいい男だったから。ミックは一緒に話をしていても、誰か別の人間が入ってくると、まるで人間が変わっちまって、さっと自分の殻に閉じこもってしまうんだ」

キースとミックと共に、「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」の三角形の底辺を担っていたディック・テイラーは回想する。

「いろんなやつが脱落したり、追い出されたりしていったけれど、ずっと続いていたのがキースとミックのコンビさ。ミックはキースの物事にこだわらない性格だとか、気の強いところとか、ギターへのこだわりが気に入っていたし、キースはミックの頭の良さだとか、派手好きなところとか、野心なんかに惹かれていた」

1962年3月、ブルー・ボーイズの面々は、ロンドンにリズム・アンド・ブルースのクラブがオープンすることを知った。

ビルの地下にあるジメジメした「イーリング・クラブ」に行き、イギリス初のリズム・アンド・ブルース・バンドである、ブルース・インコーポレイティッドの演奏に触れたのだ。

アレクシス・コーナーのギター、シリル・デイヴィスのハーモニカ、チャーリー・ワッツのドラムを配したこのバンドとの出会いは、18歳になったばかりのキースにとって衝撃的だった。
キースとミックは定期的にこのクラブに足を運ぶようになり、イギリスのブルースの父と言われる当時33歳のアレクシス・コーナーと親しくなっていった。

ある日、キースとミックはアレクシスとチャーリー・ワッツにバックをつとめてもらい、ステージに立ち「Around Around」を演奏した。

曲が終わると、シリル・デイヴィスはミックにだけ「よくやった」と声をかけた。

聴衆はキースの演奏には漠然とした反感を抱いていた。

ディック・テイラーが忠告すると、キースは、
「かまうもんか。今にわからせてやる」
と答えた。

クラブに行くと、必ずミックは歌うよう声をかけられるようになったが、キースには声がかからなかった。

5月になるとミックはアレクシスからブルース・インコーポレイティッドに誘われ、ミックもこれを承知した。

アレクシス・コーナーは言う。
「ミックには聴衆を惹きつける独特の魅力があった。最初からまるで違っていたよ」

さーて、いよいよブライアン登場です!!

ミックがアレクシスのバンドで歌っている頃、同じくイーリング・クラブの常連だったブライアン・ジョーンズは、メンバー募集中の自分のバンドのオーディションにキースを誘った。

……と、やっとブライアン登場のところで、長くなり集中力の限界なので、続きはまた後日。