2018年7月3日、ブライアン・ジョーンズ49回目の命日です

今日は、ブライアン・ジョーンズ49回目の命日です。

ブライアンは1969年の7月3日、自宅コッチフォードのプールで亡くなりました。正確には7月2日の深夜、日付が3日になるかならないかころだということです。(あ、今までのブログで3日になる前の2日の深夜って書いていますね)

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当時のブライアン

当時のブライアンは、ストーンズをクビになって3週間ほど。

自宅で作曲活動をしていたといいます。

ビルがそのころの様子を書いていますね。

これを読むと、ブライアンはストーンズをクビになって打ちひしがれているというより、希望に満ちていたように思えます。

しかし作曲に励んでいたはずが、その音源がひとつも残っていないですよね。残念です。。

ビルの著書によると希望に満ちていたようなブライアンですが、一方、不安を抱えていたのではないかと思われるこんな証言もあります。

もしも当時のブライアンに相談されたら?

このブログは、妄想ブログでもあるので(笑)、ここで妄想してみましょう。

ストーンズを離れ、希望と不安の中にいた当時のブライアンに相談されたら、どのようなアドバイスができるでしょうか。

全力で考えてみましょう。

ストーンズ脱退時、ミックがアラン・クラインに約束させたお金がブライアンに払われ続けられたとしたら、ブライアンは生活費には困らなかったでしょう。

しかし約束が守られるとは思えないような気もします。

となると、ブライアンは生活費を稼いでいかなくてはなりません。

音楽をブライアンから切り離して考えることはできないと思います。

音楽こそ、ブライアンそのものであり、ブライアンを活かすものだから。

「元ストーンズ」という肩書が一生付きまとうことになろうと、音楽は続けるべき。むしろ「元ストーンズ」という肩書を活かすべき。

とにかくまず、精神的にも安定して、体力も取り戻す必要があったから、健康的な生活を心がける。
⇒ブライアン自身、わかっていて、コッチフォードの屋敷で健康を取り戻そうとしていた気がする。

純粋に音楽を演奏する楽しさを味わう。
⇒これも、本人がわかっていた気がする。

いっそのこと、イギリスから出てみる。
⇒屋敷を購入したばかりだし、ドラッグ問題もあったし、難しかったのかも。

う、うーん、全力で考えても難しいですね……。

とにかく生き続けていれば、なにか新たな展開もあったように思います。だからブライアンには、事あるごとに、生きていることの素晴らしさを謳歌しなよ!って言われているような気がするのかな。。。

ミックとキースはお葬式に参列しなかったけれど

ブライアンのお葬式は7月10日、故郷チェルトナムで行われました。

ギターの形に組んだ真っ赤な薔薇のリースは、ブライアンの両親と妹のバーバラからのものです。

ミックとマリアンヌからのリースもあり、ストーンズからは赤と黄色の薔薇で作った2.5メートルの高さの「天国の門」が供えられていたそうです。(車の屋根に載っているのが、そうでしょうか?)

ストーンズ関係者として、ビルと当時の恋人のアストリッド、チャーリー夫妻、スチュ、トム・キーロックは参列しましたが、ミックとキースは参列しませんでした。

批判的な意見もあるかもしれませんが、うーん、とても参列できる気にはなれなかったのではないでしょうか。ブライアンが亡くなったことは、あまりにもショック過ぎて。

参列できる気になれなくても、お葬式には参列したほうが良いとは思いますが、メンバーも若かったですからね……。

ビルの著書からの引用です。

葬列はプレストベリーに近い、町の共同墓地へ向かった。墓地までの3マイルのみちのりにあふれる群衆を、特別に警察が出て整理した。

ブライアンをハメて追い詰めた警察が、ブライアンの最期のときには警備してくれていたのですね。

両親の手前もあり、ブライアンはうれしかったんじゃないかな、たぶん……。

さて!
なにを聴くか迷いますが、ここは希望に満ちていたブライアンが聴いていたと思われるCCRの「PROUD MARY」を聴きましょう!

あのですね、変な話ですが、私にはブライアンの魂は今でも存在し続けていると感じられるんです。

なので、「冥福を祈る」というよりも、「一緒に楽しもう!」っていう気持ちなのです。変ですよね、変でもいいです(笑)