CHICAGO Chess SESSIONS

以前から気になっていた「CHICAGO Chess SESSIONS」というCDを買った。
割引セールをやっていたので……;

ブートの割には音もよくて、買って正解v

これは1964年6月10日、11日に、ストーンズ初めてのアメリカ・ツアーの際に録音されたもの。

このセッションについて、当時ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・ルーグ・オールダムが2000年のインタビューで、次のように語っている。

――64年にシカゴのチェス・スタジオでストーンズは録音しましたが、それはフィル・スペクターのアイディアということですか。
「それは私のアイディアだよ。なんと言ってもその時の、ストーンズの最初のツアーは最低だったんだ。みんな死にたいほどの気分で落ち込んでいた。そんな彼らをそのままロンドンに帰すことはできなかったんだ。そこで私は、彼らが最も崇拝する神殿を訪ねることにしようと思った。そこがチェス・レコードだったんだ。そのとき我々はテキサスにいたんだけれど、突然電話して”今から、行ってもいいかい?”と聞くのも不自然だったので、フィル・スペクターに連絡してセットアップしてもらったんだ」

1964年6月1日、ストーンズは初めてのアメリカ・ツアーに発ったものの、まだアメリカではそれほど知名度がなかったので、いくつかのコンサートや、インタビューでの思いがけない反応に落ち込むことになってしまったのだ。

ビルの著書には、テキサスでのコンサートについて、次のように書かれている。

屋外のコンサートで、観客はカウボーイと子供たち。反応は貧弱だった。おれたちは、芸をする猿の後に演奏しなければならなかった。いったい全体おれたちはここで何をしているんだ! 客はおれたちを真面目に鑑賞すべきか、冗談とみなすべきかもわからなかった! カウボーイがおれたちをバカにしたので、ミックが馬に乗って行っちまえといった。会場を後にしたとき、おれたちはふさぎ込んでいた。

同じ場所での夜のコンサートでも、彼らは落ち込む羽目になる。

そのショウは、午後のショウと同じような反応だった。おれたちはホテルに戻って寝た。おれたちはいったいどういう羽目に陥ってしまったのだろう! 空港でもホテルでも群衆はすごかったが、この2回のショウで何年分も引き戻されてしまった! 報道陣からの慰めもまったくなかった。オマハ・ワールド・ヘラルドには型通り「みすぼらしくて、規律のない、痩せこけた、醜い厄介者」と書かれた。

同じくオマハ・ワールド・ヘラルドのロバート・マックモリスは、

「ローリング・ストーンズがショウで攻撃を開始すると、観客は抑制を失ってしまった。客はまばらだが、ほとんどは十代の女の子で、金切り声をあげてはねまわる暴徒と化し、アイドルをもっと近くで見たいと要求して騒いだ。わたしたち年配者にとって、幕が上がってボサボサ頭を突き出したローリング・ストーンズをはじめて見たとき、科学小説の映画のように思われた。ギター・プレイヤーは、かがみ込むようにして出てきた。コンサートのあいだ、そのままの姿勢だった。うさん臭い、ほとんど敵意のある目つきで客を睨みつけていた。暗黒街から来た男なのだろうか? 彼の後に、みすぼらしくて好ましくない格好のヒーローたちが4人続き、金切り声はさらにすごい興奮状態に高まっていた」

と書いた。

”暗黒街から来たギター・プレイヤー”って?(笑) キース? ブライアン?

とにかく、散々落ち込んだ彼らだったが、アンドリューが彼らを元気付けるためにセッティングしたセッションは、本当に彼らを喜ばせたようだ。

ビルはこのセッションについて「おれたちにとって歴史的なものだった」と書いている。

エンジニアはロン・マロ(おれたちのアイドルのほとんどをレコーディングを担当していた)でアンドリューがプロデュースをした。アメリカのスタジオで4トラックでレコーディングするなんて、記念すべき出来事だった。おれたちがクラブやコンサートで生でやるサウンドは、イギリスで作ったレコードには忠実に再現されていないのはわかっていた。イギリスではみんな、おれたちが求めていたような、良質のファンキーなアメリカ的感覚、ある種のラフさには慣れていなかった。一番いいのはなるべく早くアメリカへ行ってレコーディングすることだとわかっていた。ロック・グループにとってイングランドで大きな問題は、スタジオの音響効果が悪いことだった。大きな音で演奏できないのだ。チェスで録音したとき、ロン・マロはおれたちの希望を正確に把握し、ほとんどすぐに応えてくれた。ちょっとした歴史に参加しているような気がした。録音したい曲もすでにだいたい決めていたし、雰囲気がすばらしいので録音ははかどり、4時間で4曲録音し終えた。ヴァレンティノスの<It’s All Over Now>、マディ・ウォーターズの<I Can’t Be Satisfied>、それに<Stewed And Keefed>という即興で作った曲と、<Time Is On My Side>だった。セッションのあいだに、ブルース・ギタリストのバディ・ガイとソングライターのウィリー・ディクソン(自分の曲をおれたちに売りこもうとした)が訪ねてきて、興奮した。

2日目にはマディ・ウォーターズとチャック・ベリーが訪ねてきた。

録音したのは<Confessing The Blues><Around And Around><Down The Road Apiece><If You Need Me><High-Heel Sneakers><Down In The Bottom><Empty Heart><Tell Me Baby><2120 South Michigan Avenue>。

この選曲、少しブライアンの匂いがしますね~

それと、<Stewed And Keefed>(別名:ブライアン・ブルース)って、即興でこのとき作った曲だったのですね。

ブライアンファンとしては、アンドリューにはあまり好感を持っていなかったのですが(アンドリューがミックとキースを組ませて、ブライアンを除け者にしたイメージがある)、2000年9月のインタビューを読む限り、彼は名プロデューサーであることが理解できる。

それに、落ち込んでいるメンバーを元気付けるために、このセッションをセッティングしたことだけを見ても、アンドリューはストーンズのいいマネージャーだったのだなと思える。

メンバーが認めるとおり、アンドリューがいなかったら、ストーンズはこれほど売れなかったかもしれません。

インタビュー中にブライアンの名前が出てこないかと思って読んだのですが、全然出てきませんでした。

ブライアンとはドラッグをやっているときだけ、気が合った、というのを何かで読んだことがありますが。

ストーンズから離れた時のアンドリューはドラッグでひどい状態だったらしいですが、2000年のアンドリューは健康的なジェントルマンであり、アメリカに来た時にしか手に入らない健康食品やハーブが部屋に積まれていたそうだ。

アンドリューはインタビューの最後に、ブライアンの後釜で入ったミック・テイラーについて語っている。

ミック・テイラーがストーンズから抜けてから、会って話をする機会があったのだそうだ。

「自主的にストーンズから離れたのは自分たち二人だけ」だと語り合い(あれ? ビルは?)、アンドリューは当時のミック・テイラーの様子を、
「彼は平静を装っていたけどかなり問題がありそうだったね。ギターもままならないような……それまで彼は人生経験がなさ過ぎたんだね。まあ考えてみれば、彼がストーンズに入ったのは右も左もわからない若造だった頃だから仕方がないのかもしれないけれど」
と言っている。

そして、「私は本当にそこから(ストーンズから)抜け出せることができてよかったと思っているよ」
とインタビューを締めている。

さて、この初めてのアメリカ・ツアーの当時のブライアンの状況といえば、リンダ・ローレンスと暮らしていて、ツアー中も毎日のように、リンダにはがきを送っている。

例えば、ミネアポリスのファースト・ナショナル・ビルディングのもので、
「ピップ(リンダに買ってあげたプードル)はどうしてるかい? 元気だといいね。アメリカは本当に愉快だ! もうすぐ帰って君に会える。愛をこめて、ブライアン」

また町の夜景のはがきで、
「テキサスを離れるのは本当にさびしい。とても暑くてなにもかもがすごい。おれは、ガラガラ蛇も殺した。(原文のまま)きみにとってある! 会うのを楽しみにしているよ。バイバイ、ブライアン」

「ここでは人生はとても楽しい。イギリスに帰りたくないくらいだ――きみとピップとビリーに会うほかはね。愛をこめて、ブライアン」

両親には、
「お母さんお父さん、アメリカは今まで見たうちで一番すごいところです。ぼくらは、アトランタ(原文のまま)、ニューヨーク、シカゴに行ってきました。ファンタスティックな時間をすごしています。お父さんお母さんも来たければ、航空券を送ります。本当にすごいです。もっと早く書けばよかった。愛をこめて、ブライアン」

これらはビルの著書からの引用ですが、何故ビルが、ここまでブライアンが書いたはがきの内容を記録しているのでしょう??

このはがきの文面からは、ブライアンのあたたかい人柄がにじみ出ています。

そしてツアーの翌月、1964年7月23日には、リンダとの間に、4人目の私生児、ジュリアン・マーク(何故かパット・アンドリュースとの子供と同じ名前)が産まれている。

このツアーの時、ブライアンはアンドリューや他の人たちに、
「もし結婚して雑誌や新聞に書かれりゃ、それでおまえもおしまいだ」
と言われていたらしいです。

大きなお世話かもしれませんが、このとき結婚して家庭を持っていれば、少しは落ち着いた生活ができたのかもしれない、なんて思ってしまいます。

しかし、「このツアーの時に、ブライアンはありとあらゆるドラッグを覚えて、帰って来た時には別人のようになっていた」と、後年、リンダがインタビューで語っているのですが。

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