ブライアンとキース・リチャーズ part17

ジョージ・ハリスン自伝」(河出書房新社)を読んでいたら、ビートルズには詳しくない私でも知っている「Here Comes The Sun」が、ジョージ・ハリスンの作品であることを知りました。
(なんて思っていたら、最近何かのTV番組のBGMで流れているようです)

ジョージ・ハリスン自伝―I・ME・MINE

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ジョージ ハリスン
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とてもきれいな曲です。

ビートルズのメンバーの中でも、ブライアンはジョージ・ハリスンとは仲がよかったと言われていますよね。

シタールを教わったとか。教わる前に自分で覚えちゃったとか?

ということで、はじめに「Here Comes The Sun」です。

この映像、何年のでしょう? 豪華な顔ぶれ。
George Harrison Playing Here Comes The Sun


陽がさしてくる 太陽が顔を出す
だから言うよ これでいいのさ

いとしい人よ
長くて厳しくて寂しい冬だったね
いとしい人よ
もう何年も冬が続いていたような気がする
陽がさしてくる 太陽が顔を出す
だから言うよ これでいいのさ

更に、ジョージ・ハリスンの作品で「Here comes the moon」というのがあるのを知りました。

ブログ名を見ていただいてもわかる通り、私は月が好きなので……。
「どんな曲だろう?」
と興味を持ちました。

ハワイで、ある日の夕暮れ、太陽が沈もうとしているかたわらで、満月が昇ろうとしていた。

そんな風景に感動して作った曲のようです。

というわけで、続けて「Here comes the moon」です。
Here comes the moon


まさに神の贈り物だ
はるか上空で 夜に向かって動いている
この暗さなのに 空の鏡は ぼくたちの姿を映し出す

ほら あそこ 昇ってくる
月が昇ってくる 月が 月が 月が 月が

ジョージ・ハリスンは綺麗な曲を作るミュージシャンだったのですね。

本を読んでいたら、なんとなくブライアンと気が合ったというのもわかるような気がしました。宗教的な部分は別としても。

と、一体なんのブログなんだという感じですが、「ブライアンとキース・リチャーズ part16」の続きです。

ブライアンがストーンズを脱退してから亡くなるまでの数週間のことは、以前も書きましたし、これからも書く機会があると思うので、今回は割愛します。

***************
1969年7月3日深夜、ブライアンは自宅のプールで亡くなった。

ストーンズのメンバーが、オリンピック・スタジオで、スティービー・ワンダーの曲「I Don’t Know Why」をレコーディングしているとき、ブライアンの死の知らせが届いた。

その場に居合わせた年配のスコットランド人ジョックは、スタンリー・ブースに「キースが一番辛そうだった」と語ったそうだ。

ブライアンの死の前後の出来事については、映画「ストーンズから消えた男」にも描かれていました。

また、以前紹介した「サルバドール・ダリが愛した二人の女」には、アマンダ・リアがその日、ブライアンを訪ねる予定になっていたとも書かれています。

何が真実に近いのか、年月が経つうちに、記憶違いや脚色されてしまったことなどもあると思うので、今回は当時の日本の雑誌、「Music Life」1969年8月号に書かれていることを紹介します。

8月号ということは、発売日は7月中だったと思われ、この雑誌の記事は、ブライアンの死のニュースが流れた直後に発売になったのだと思います。

古本でなんとか手に入れたのですが、しかし、この雑誌、複雑なんです。

ブライアンの死が、あまりにも突然だったせいだと思うのですが、
「速報!ブライアン・ジョーンズの悲劇的な死」
という記事がある一方で、
「ストーンズ8年目にメンバー・チェンジ」
というブライアンからミック・テイラーにメンバーが代わったことが記事になっていたりして、ハイド・パークで行われた記者会見の写真が掲載されています。

「ハイド・パークには300人にも上るプレス関係者がつめかけた。久々にストーンズが現れ、意気さかんなところを見せたこの日、二人のミックはまるで兄弟のようにピタリと呼吸の合ったところを見せた」
なとど、新生ストーンズの明るい未来を感じさせています。

そしてミック(ジャガー)が、ブライアンは今後なにをやっていくのかと聞かれて、
「それについてはぼくはあまりいえない。むしろ直接お聞きになったほうがいいでしょう。彼もなにか違ったことをやりたいと思っているだろうし、また彼は長い間、ミュージシャンとしてやってきた。ぼくとしては彼がなにをやるとしてもうまくいくことを期待している」
などと答えています。

また、ストーンズとはあまり関係ないですが、「ドノヴァンに子供がいた!」という記事があって、”恋人”であるリンダ・ストゥルバーガーと、その子供との三人の写真が載っています。

「えーっ? ドノヴァンにはリンダ・ローレンスと結婚する前に既に子供が! しかも結婚はしていなかったらしい?」
と、驚いてみたり。

歴史を感じてしまう一冊の雑誌でありますが、今や中々手に入りづらいと思いますので、ブライアンの追悼記事の部分を紹介します。

ストーンズから離れ、ブルースのバンドを作る意欲に燃えていると伝えられていたブライアンの突然の死。

ニュー・ミュージカル・エクスプレス編集長のアンディ・グレイ氏に詳細なレポートを依頼し、その分厚い原稿が7日の早朝、速達で届いたとのこと。

翌日、ハイド・パークのコンサートがあると締められているので、レポートは7月4日に書かれたものと思われます。

そしてブライアンの死によって、私生児がいた事実が、初めて明るみに出たみたいです。

しかし、この記事にはミスも目立ちます。

まず、ブライアンが「1944年生まれで、25歳で亡くなった」となっていること。

実際には1942年生まれで27歳で亡くなったのですが、この当時は2歳サバ読んだままになっていたのでしょうか?

そして未公開だったはずの「ロックンロール・サーカス」が1968年11月11日に放送された、となっていること。

実は、放送されていたのでしょうか??

しかも収録するよりも前に放送? 有り得ない……

いきなりブライアンが亡くなったのが”1966年”7月3日となっていること。(急な記事だった故のミスプリント?)

……細かいことは気にせず、記事の流れを紹介します。

亡くなったのは、コッチフォードの自宅プール。

水泳の最中に急死。

22歳のアンナ・ウォーリンと、室内装飾をしていた44歳のフランク・ソログッド氏が一緒にいたが、彼らは喫煙のため、家に入った。

そして彼らが戻ってくると、ブライアンがプールの底に沈んでいた。

プールに飛び込み、ブライアンを引き上げ、救急車を呼び、一時間半にわたって人工呼吸を続けたが、その甲斐もなく、医師はブライアンの死を宣告した。

プールサイドで、ブライアンが喘息の発作をおさめるために用いていた吸入器が発見された。
彼はそれを使いすぎ、心臓障害を引き起こしたのではないかとみられている。

ブライアンはこの邸宅を、約9ヶ月前三万五千ポンド(約3500万円)で購入。

皮肉にも、ブライアンがこの邸を買ったのは、大きなプールがあったからだった。

3週間前にストーンズを脱退してから、ブライアンはどこへも出かけず、この家に閉じこもり、新しいグループで演奏するための音楽の仕事に取り組んでいた。

ブライアンはここを永住の地と決め、家庭もここで持ち、骨を埋めたいとも語っていた。

ブライアンはストーンズ時代、せっせと貯金していた相当額を、新しいグループにつぎ込むつもりだった。

ブライアンがストーンズを離れた理由は、自分が作曲したものを演奏しても、金をもらえなかったからだった。

「決まってミック・ジャガー=キース・リチャードのものばかりで、ぼくのは一曲もないんだ。そんなやり方は好きじゃない」

やっとレコーディングのための曲が出来上がり、彼は幸福で、夜遅くまで仕事をしていた。

それが夜半に泳ぐことのきっかけとなった。

ブライアンは麻薬のことで再び逮捕されるのを極度に恐れていて、全く麻薬をやめていた。

しかし彼は、喘息用の吸入器を手放したことはなく、これをパイプのようにふかしていた。

吸入器の中のいくつかの化学的なものは心臓に良くなく、これがブライアンを死に至らせたと思われる。

ここにショッキングな隠された事実がある。

ブライアンには二人の女性に産ませた子供がいるのだ。

一人はパット・アンドリュース(24歳)で、7歳になるマークという男の子がいる。3年前にブライアンの子供として認知されているが、彼女は週50シリング(約2500円)しかもらっておらず、ひどい貧乏をしている。

今回の件によって、ブライアンの財産取得を主張している。ブライアンの遺産は15万ポンド(約1億5000万円)は下らないと推測されている。

もう一人はリンダ・ローレンス(24歳)で、5歳になるジュリアンという男の子がブライアンの子供だと主張している。

しかしブライアンは一度も彼女を訪れてはいないし、子供にも一度も会ったことがない。
(あれ? リンダはブライアンより5歳下ではなかったでしたっけ?)

ハイド・パークでの無料コンサートは、急遽「ブライアン・ジョーンズ追悼コンサート」に置き換えられ、明日(7月5日)に行われる。

親友からの弔辞
ミック
「ぼくは今、とても不幸な気分でいっぱいです。ショックを受け、言葉もありません。ただ悲しいだけです。何かを失いました。何かが消えてしまったのです。ぼくたちは一心同体でした。いつも一家族のようでした。ぼくはただ祈るだけです。彼は幸せになることを望んでいました。彼は今平和を見つけてくれたと思います……。本当に、ぼくには彼が必要だったのに……」

キース
「彼はすばらしい親友でした。静かな、でも打ちとけた……」

ビル
「ブライアンがいなくなったなんて、とても信じられない……」

チャーリー
「彼は良い奴でした。それに頭のいい男でした」

ジミー・ミラー(ストーンズのレコーディング・マネージャー)
「彼は生粋のミュージシャンでした。決してコマーシャルに流れず、ストーンズのイメージに適応しなかったのもブライアンです。ミュージシャンとして彼の『ベガーズ・バンケット』に於けるすばらしいボトルネック・カントリー・ギターの演奏は、永久に記憶に残ることでしょう。彼は偉大なブルースのミュージシャンでした。しかも白人として非常に正直に演奏していました」

マリアンヌ・フェイスフル
「ひどい打撃を受けました。彼は本当に良い青年だったのに」

パット・アンドリュース
「すべてを呪います。私たちはみんな、まだ彼を愛していると思います。彼は愛すべき人でした。そしていつもとても寂しそうでした」

――以上が、記事の概略です。

思うことをいくつか。

気になったこと(1) 上記のミックのコメント。
なんとなく、わざとらしくて不自然な印象を受けます。
たぶん訳し方の問題なのでしょうが……。
勝手にコメントを変えてしまうのもどうかと思いますが、余計なことながら、ちょっと考えてみました。

例えば、
「とても悲しいです。ショックで……、言葉もありません。ただ、悲しいです。何かを失いました。何かが消えてしまったのです。ぼくたちは、いつも一緒でした。いつも一家族のようでした。今はただ祈るだけです。彼は幸せになることを望んでいました。彼は今平和を見つけてくれたと思います……。本当に、彼はぼくにとって大きな存在だったのに……」

これだったら、少し自然な感じになりますよね?(え? 大して変わらない?)

ミックと他のメンバーのコメントは以前「ブライアンとミック・ジャガー part10」でも紹介しましたが。

気になったこと、(2)
記事にはブライアンは「心臓障害を起こした」と書かれています。
これは真実にかなり近いのではないでしょうか。
ブライアンはアルコールは飲んでいたのでしょう。
でも、この時期には、医者から処方される薬以外は飲んでいなかったのだと思います。
確かに吸入器は心臓に負担をかけるもののようなので、ブライアンは水泳中、なんらかの心臓障害を起こしたのかもしれません。
もしかしたら、持病の側頭葉てんかんの発作を起こして、水中で一時的に意識を失ってしまったのかもしれません。

ストーンズを辞めてから、まだ完全には体調も快復していなかったのでしょうが、でもその死が「ドラッグの犠牲者」として広められてしまったのは、ブライアンとしては不本意なのではないでしょうか。

違法ドラッグを服用していたことはあって、それが健康を損ねてもいたのでしょうけれど、
「この時には、もう止めていたのに! 健康になるために、水泳ができるプールがある邸に住むことにしたのに!」
って。

気になったこと、(3)
ブライアンは業者にお金が払えないくらいの経済状態だったのではなかったのでしょうか?
実は貯金がたくさんあって、遺産も一億円以上だった??

気になったこと、(4)
ジュリアンの母親であるリンダ・ローレンスとは、子供が産まれてからも会ってますし、ブライアンはジュリアンにも会ってますよね?

気になったこと、(5)
”やっとレコーディングのための曲が出来上がり、彼は幸福で、夜遅くまで仕事をしていた。”
とありますが、レコーディングのための曲が出来上がっていた?
その曲は一体、どこに??

実際にあるのなら、ブライアンの遺作になったのに!!

と、書きながら、このブログ「ブライアンとキース・リチャーズ」なのに、今回はキースについてほとんど触れていないことに気づきました。

次回は、キースの他のコメントなども紹介したいと思います。

いつまで続くのか、と思いながらも、後日に続きます。

コメント

  1. やさしいThe Beatles入門 より:

    「Here Comes The Sun」

    「Here Comes The Sun」は、ジョージ・ハリスンが、1日アップルと