ブライアンとキース・リチャーズ part5


あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

穏やかな、できれば心躍るようなことが少しでもあるような日々を送りたいと思っている年頭です。

皆様にとっても、良い年となりますように☆

写真は、初詣に行ったときに、今更ながら見つけた駅前の装飾?(オブジェ?)です。
”URAWA サッカー・タウン”……、早速、心躍りました^^♪(単純)

*****************

さて、昨年に引き続き、ブライアンのブログ、早速いきます♪
part4の続きです。
太字がキースの発言です。

1963年秋、まもなくメイプスベリー・ロードに引っ越すという頃、キースは初めて恋をした。

相手は17歳のリンダ・キース。ハムステッドの中産階級の出だった。

アンドリュー・オールダムのガールフレンド、シーラ・クライン曰く、
「リンダははっとするほどの美人でね。人の目をひくコツを知っていたし、とても頑張り屋だった。あのころの彼女はヴォーグでアシスタントをしていて、あと少しでモデルとして成功しそうだったわ。着こなしが独特で、とっても勉強家だったし」
とのこと。

この頃、ミックは超一流モデルのジーン・シュリンプトンの妹のクリッシーと恋愛中、ブライアンは恋人のリンダ・ローレンスとその家族の家に居候していた。

キースとリンダ・キースは双子のように、着るものも動作も話し方もそっくりになった。

リンダ・キースは、
「出会ったとたん、お互いに好きになったのがはっきりわかったわ。恋人としてだけではなく、友人としても、わたしたちはいい関係だったわね。彼は寂しい人だった。子供の頃もとっても寂しかったんだろうって思った」
と言う。

――キースのガールフレンドで、後にはブライアンとも付き合うことになるリンダ・キースは、ジミ・ヘンドリックスのDVDで初めて見ました。

確か、ジミの演奏を聴き、”すごい!”と思ったリンダ・キースがアンドリューにジミを紹介したものの、アンドリューは興味を示さなかったんじゃなかったでしたっけ?

1963年6月、エリック・イーストンがアメリカに子会社のロンドン・レコードを持つデッカ・レコーズとの録音契約を取り付けてきた。

イギリスのレコーディング・スタジオは旧式だったし、最初のうち、アンドリュー・オールダムは音楽についても録音についてもたいした知識がなく、頼りにならなかった。

「ビートルズやおれたちが出てきた頃は、レコード業界は零細企業だった。イギリスには大きなレーベルは2つしかなくて、どちらもミサイルの誘導システムとかそんなほかの仕事で金を稼いでいる会社の傘下にあった」

「ロックンロールの人気が出てくると、音楽はそれ自体がものすごい金を生み出せるものだというのが見えてきた。ビートルズやおれたちのバンドがまずとりかかったのは、レコードの内容に関して自分たちで管理することだった。口出しは許さなかった」

ストーンズはデッカの幹部連中がいなくなった夜間にレコーディングを行い、学んでいった。

イギリスで初めて出したシングル「Come On」はヒット・チャートの21位まで行き、次の「I Wanna Be Your Man」は12位まで行った。(これは作者であるジョン・レノンとポール・マッカートニーの力に負うところが大きかった)

当時から、注目を集めるのは、いつでもミックとキースだった。

ふたりはしょっちゅう、新聞やテレビや宣伝用の写真に登場し、ますますブライアンのねたみを買うようになっていった。

ミックとキースの写真が『レコード・ミラー』紙の表紙になったとき(ほんの小さな一角だったが)、写真に写っていなかったブライアンは新聞社に抗議した。

何故自分が写っていなかったか、ストーンズがどんなに民主的で協力的なバンドか、長々と手紙に書き連ねたのだ。

「そういう点が我慢できない」
とミックは憤慨気味に言う。

ブライアンの偏執狂じみた性格が表立っていくにつれ、キースとミック、アンドリューは結束を深めていった。

イアン・スチュワートの証言。↓
「あの頃のキースときたら、なんでもアンドリューのいいなりだった。俺たちほかのメンバーは、あの頃やつらとはほとんどつきあってなかった。オールダム(アンドリュー)のオフィスから出される決定事項は、やつら3人(アンドリュー、キース、ミック)の相談の結果だったんだ」

チャーリーとビルはその決定事項に従ったが、野心家のブライアンはこの状況にすっかり憤慨していた。

権威を失ったブライアンはますます不安をつのらせ、自分の地位にこだわっては悩んだ。

――初期の頃のストーンズは、ミックとブライアンがバンドの顔といえるほど人気を争っていたのではないでしょうか。

キースが目立ってきたのは、しばらくたってからだと思うのですが、勘違い?

実際に、ブライアンのファッションだとか髪型などに影響を受けたミュージシャンなども多かったようですし。

それに、始めた頃は”自分のバンド”だとすら思っていたストーンズが、自分の知らないところで、いろいろなことを決定していて、他のメンバーはそれに従うだけ、なんていう立場に、ブライアンが納得できなかったっていう心理は理解できるように思います。

それでも、それは”偏執狂的性格”と言われてしまうのでしょうか。

大分、折れて合わせていた部分もあったと思うのですが。

ストーンズが他のポップ・グループから一歩抜きん出る最初の兆しが見えたのは1964年2月の3枚目のシングル「Not Fade Away」だった。

オリジナルはバディ・ホリー。

キースはこの曲をアコースティック・ギターで何度も何度も練習していた。

イギリスの評論家マーティン・エリオットによれば、
「キースがこうしたリフを改作して、バディ・ホリーがコピーした、ボ・ディドリー本来の荒々しいリズムに戻したとき、彼にはローリング・ストーンズのサウンドとスタイルが見えてきた。キースがアコースティック・ギターで出だしのコードを鳴らしたとたんに、この曲の雰囲気が決まり、大いなる魅力を発揮した」
となるそうだ。

スタンリー・ブースの著書によると、「Not Fade Away」はアンドリュー、ミック、キースが一緒に住むアパートで形になったそうだ。

アンドリューの証言。↓
「3人で集まって、次は何にしようか、と思案していた。バディ・ホリーの曲を適当に口ずさんでいると、キースが、十二弦ギターでNot Fade Awayの短いヴァージョンをつま弾き始めた。ふたつかみっつの小節を弾くか弾かないかのうちに、おれたち3人とも、突然ひらめいたんだ。レコーディングには、フィル・スペクターがやってきて、マラカスを担当してくれた。B面の”リトル・バイ・リトル”は、フィルとミックが作曲したんだよ」

3月には「Not Fade Away」は3位になった。

またこれはアメリカで初めてリリースされたシングルで、全米48位となった。

――うーん、ブライアンファンだからでしょうか。
「Not Fade Away」で一番光っているのは、ブライアンのハーモニカだと思うんですが。
思わず「ブライアン、カッコい~っ!」と叫んでしまいそうな。

アコースティック・ギターの音も言われてみればいいと思いますが、あの曲はブライアンのハーモニカがなくては!というか、ブライアンのハーモニカが主役の曲とすら思うのですが。

でも音楽的視点から見ると、やはりアコースティック・ギターの力が(も)大きいのかもしれませんね。

1964年が始まって1週間もたたないうちに、ストーンズは当時人気絶頂のロネッツと共に、イギリス・ツアーに乗り出した。

ロネッツのリード・シンガーのロニー・ベネッツと寝たというのがキースの自慢で、本人の話では、これはミックと女を争った数少ないうちの一回だったと言う。

キースが言うには、最後は自分がロニーを勝ち取ったので、ミックは同じくロネッツのメンバーでロニーの妹であったエステルと話をつけなければならなかったそうだ。

しかし、後にフィル・スペクターと結婚する、当時は婚約していたロニー自身は、キースとはなにもなかったと断言している。

キースの恋人だったリンダ・キースは、
「彼女と本当に寝たのだったら、少しは見直したかもしれない」
と言っている。

ツアーでは、ストーンズのコンサートの盛り上がりようはすさまじいものになっていた。

ステージに殺到する者あり、上の桟敷席から飛び降りる者あり、あるいは着ている服を引きちぎり、絶叫する者あり、という有様で、警官や担架を抱えた看護婦が怪我人を救急車に運び込むのに大わらわだった。

「またクリミア戦争がおっぱじまったのかと思ったぜ」

この頃のストーンズはもはや、名声というまばゆい輝きからはあまり心の安らぎを得られなくなっていた。

「おれたちは実際、変人の寄せ集めだった。いいロック・バンドを組むには最悪の人間ばかりだったよ。第一、メンバーの半分は、ロックンロールのスターになるなんてゾッとするって考えていた」

「ステージで演奏していて(観客の絶叫で)、自分たちの音が全然聞こえないっていう現実があって、おれはビートを聞こうと思ったら、チャーリーのドラムセットのまん前に行かなくてはならず、そうなるとやつに聞こえるのは、やつの真横にある俺のアンプの音だけさ。シンガーの声やベースの音が聞こえなくたって、演奏できる方法を見つけていかなくてはならないってことなんだ、これはチャーリーと俺だけの問題だった。ああいった取り決めがなかったら、俺の演奏はまったく違ったものになっていたはずだ」

キースはこうした状況の中で、自分なりの強靭な生存本能を身につけていった。

アートスクール時代にもお世話になったアンフェタミンの助けもあって、元気いっぱいだった。

キースはミュージシャンがドラッグをやるのは、
「”金も出来たし、名前も売れた。麻薬でもやってみよう”なんていう理由ではなくて、次々とギグをやりたいため」
だと言う。

一方、ブライアンはバンドへの影響力の衰えと歩調を合わせるように体調を崩していき、ギグを休むようになった。

――こういう下りを読むと、ブライアンがドラッグを始めたのは、本人も言っていた通り、
「ドラッグとアルコールは状況に対処するために必要」
だった、ということなのでしょうね。

過密になっていくスケジュール、人気が出てきて注目度も高くなっていった、そんな中でその状況に自分を合わせるために、ブライアンにはアルコールやドラッグが必要だった。

たぶん、キースがそれらを必要としたのと同じように。

ただ、ブライアンはキースほどに体力がなかったために、次第にそれらに自分自身が蝕まれていくようになってしまった……、
いえ、ブライアンはヘビー・ドラッグはやらなかったという話もあるし、実際に彼を追い詰めたのはドラッグ裁判で世間から叩かれたことが大きかったように思えます。

ギグを休んだのだって、サボっていたのではなく、本当に体調が悪かったのだろうし。

今回、part3の最後の部分と時間の流れがダブってしまったような;

……というところで、続きは後日。

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コメント

  1. はにわ より:

    あけましておめでとうございます♪
    ちょっと話がそれちゃいますが、ビルがもてていたというのが、いまだに信じられません(笑)。もしかして、ビルのモウソウだったりして・・・
    今年もよろしくお願いします☆

  2. るか。 より:

    あけましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願いします☆
    60年代にビルがもてていたというのは、たぶんそういうことにビルが一番熱心だった、ということなのではないかなって思います。
    チャーリーは奥様以外に興味なしだし、当時のミックとキースは曲作りに忙しかった。
    ブライアンはそれなりに楽しんでいたのでしょうけれど、ビルへの言葉として、「たまに(ビルの)父親(だったかな?)になったような気分になる」というのがあって、たぶん女遊びに慣れていたブライアンからしてみたら、そういうことの虚しさっていうのもわかり始めていて、なので、女の子にもてる♪って言ってはしゃいでいるビルのことを、”可愛いやつ”みたいな、「父親」のような目で見ていたのかもしれません。
    しかしビルは落ち着いたようですが、ミックはいまだに落ち着きませんね。

  3. より:

    はじめまして!何日か前に偶然見つけ、ブライアンに関する記事を全て読ませて頂きました。
    確かに新聞などではミックが大きく扱われることが多かったみたいですが、どうやらブライアンのマスコミ受けが悪かったからのようで、実際には人気の面ではブライアンが一番だったみたいです。
    とは言ってもストーンズに関する証言は文献などによって大きく異なり、一体どれが真実なんだかわからないんですよね(^^;
    ある本ではブライアンが一番だった、とあり、別の本ではブライアンは空回りしていただけだった、とあったり。
    ただ一つだけわかるのは、ミックもブライアンもそれぞれの目標に向かって必死だったということですよね。ブライアンファンとしてはミックは許せませんが、でもミックだけが悪いわけでありませんし…許せませんけどね!笑
    長々と失礼しましたm(_ _)m

  4. るか。 より:

    Gさん、はじめまして♪
    読んでくださって、ありがとうございます。
    ヴォーカルってバンドの顔だと思うので、ミックが人気あったのは当たり前というか、ミックが人気なくちゃダメでしょうって思います。
    でも当時の映像を観ても、ブライアンはカッコいいですよね☆
    人気あったと思いますよ~
    ファッションセンスも、他の人とは違う素晴らしさがあるっていうか。
    亡くなって何年にもなるのに、根強いファンがいるっていうのも、ブライアンに大きな魅力があるからでしょうね。
    二人の間はねじれてしまいましたが、本当に嫌いあってたわけではないだろうし、もう少し時間があったら、もう少しいい関係になれたのではないか・・・などと思ったりします。