ブライアンとキース・リチャーズ part15

季節の変わり目の寒暖の差が激しい日々ですが、皆様、お元気でお過ごしですか。
……私は、ここ数日、とても体調が悪かったです。

フラフラになりながらも、仕事も休まず、やることがあって寝不足のまま気が遠くなりながら、どうにか乗り越えましたが。

ということで、週末の海。

閉塞感が苦手な私は、広い空とか雲とかを感じながら、潮風の中で深呼吸するのが好きです。

***************
part14と15の間経由)、part14の続きです。

ブライアンの衰えが激しくなるにつれ、何人かのスタジオ・ミュージシャンがストーンズの活動に参加するようになった。

「Beggars Banquet」のセッションでは、ライ・クーダーが「Love in Vain」「Sister Morphine」の演奏に加わっている。

――キースがライ・クーダーのリフを盗んだと言われてしまった時ですね。

このアルバムから、キースはオープン・チューニングを始めたそうです。

キースが昔のブルースをあらためて聞き直していて「チューニングが違う」と気づき、その時初めて、独特のオープンGチューニングの存在を知ったそうです。

キースが来なかったレコーディングで、ライ・クーダーが(チューニング、オープンGで)「ホンキー・トンク・ウィメン」を録音し、後日、発売されたレコードを聴いたら、自分が演奏しているのではないのに、オープンGチューニングで、イントロの裏打ちフレーズも自分のフレーズそのままだったので、
「自分のフレーズを盗まれた!」
と怒ったそうです。

ライ・クーダーは訴訟を起こそうとするほど憤っていたらしいですが、ストーンズが自分たちのレーベルを作った時にライ・クーダーがそのセッションで録音した「ジャミング・ウィズ・エドワード」というレコードを出し、その印税をライ・クーダーにも払ったそうです。たぶん、罪滅ぼしの気持ちがあったのではないかと。

そして、キースはオープンGで演奏するのに、ジャマな6弦を外してしまい、今やキースのトレードマークとなった5弦オープン・チューニングはこの時に生まれたそうです。

「ホンキー・トンク・ウィメン」で、このキースのサウンドが初めて世に出た、と同時に、この曲はイントロからギターとドラムが絶妙なタイミングで絡むという全く新しいスタイルであり、キースの相方はこの曲で、ブライアンからチャーリーへとチェンジした、とのこと。

以上は、2005年10月号のPLAYBOYを参考に書きましたが、実はギターを弾いたことがない私には、オープンGもEもDも、全くわかりません^^;

興味がありながらも、中々機会が……。(誰か教えてプリーズ)

そういえば、ブライアンが演奏に参加した「ホンキー・トンク・ウィメン」もあるはずですが、その音源はどこに??

この年、キースはもう一人、彼に多大な音楽的影響を与えた人物に出会う。

ロサンゼルスに居を構え、バーズのメンバーに加わったばかりのグラム・パーソンズだ。

ロック・アーティストとしては珍しく礼儀正しく、紳士的で、どことなく自分に似ている南部人のグラム・パーソンズに、キースは親しみを覚えた。ドラッグが好きなところも、キースと共通していた。

パースンズはレッドランズに移り、その夏はずっとキースとアニタと共に過ごした。

キースは言う。
「彼がいるだけで、部屋の中の連中がみんな優しくなるんだ。グラムにとりついている何かが、魔力みたいなものを及ぼすんだよ」

パースンズはキースにカントリー・ミュージックの仕組みを教え、ピアノの手ほどきをした。
「ストーンズが絶大な成功をおさめたのは、グラムがグルーピーみたいに年中くっついていたからさ」
と、元バーズのメンバー、クリス・ヒルマンは語る。

7月8日、「Baggars Banquet」のミキシングのためにロサンゼルスに飛んだキースとアニタは、そこで頻繁にパースンズに会った。彼らは夜通しUFOを探し求め、コカインをやりながら夜明けを迎えた。

キースとミックは、グループがよい方向に向かっていることを実感していた。

マリアンヌ・フェイスフルの証言↓
「それはもう、鮮やかな変貌よ。自分に自信がなかった若者が、あっという間にありとあらゆる権力や特権を持った若いプリンスに変身したようなものだもの。ミックとキースの変身ぶりは本当に見事だったわ」

また1968年には、ミックとアニタが共演した映画「パフォーマンス」の撮影があり、過激なベッド・シーンにキースはひどく嫉妬することになる。

トニー・サンチェスは、キースがブライアンと同じように欝状態になっていく様子を目の当たりにしていた。

自信をつけていったミックとキースとは対照的に、ブライアンは弱っていくばかりだった。

9月26日、ロンドンで行われたブライアンのドラッグ裁判に、キースとミックは揃って姿を現した。

この時の様子を、スタンリー・ブースは次のように書いている。

わたしは、前面に張り出した座席に座り、ブライアンが上を見上げた時、その視線を探った。狂気が渦巻いているような、黒い瞳。わたしは、そこに、何かにとりつかれた魂を見出した。ブライアンは、これまで見たどの人物よりも、興味深い。やがて、ミックとキースが入場してきた。数多くのライターたちが、わたしのこの場面の描写を引用することになる。
キース、ミック、ブライアンの三人は、こちらが関心を抱かずにはいられない重要な人物であった。ひょろ長い背丈のキースとミックは、陰鬱な表情ではあったが、厳粛な裁判所であるにもかかわらず、ふたりの周りには、例えようもないユーモラスな雰囲気が漂っている。あるいは、わたしがそう感じただけかもしれないが……。ブライアンは、怒り、苦痛に耐えているようであった。

ブライアンは、罰金50ポンドという判決を受けた。

スタンリー・ブースはその後、スチュに会った。

スチュはブライアンに、スタンリー・ブースに会うことを勧めて、彼らはキングス・ロードの業界人の溜り場とも言えるレストランで昼食をともにすることになった。

電話の向こうでブライアンは、
「俺と会う約束をしている、と言えば、いい席に案内してくれるから」
と言った。

ブライアンはスキを連れて、スタンリー・ブースより先に来ていた。

スタンリー・ブースによれば、二人とも、もの静かで礼儀正しかった、という。

オーティス・レディングやジミ・ヘンドリクスについて語り合い、スタンリー・ブースが、ちょうどジミの「エレクトリック・レディランド」を購入したばかりだと話すと、ブライアンは、こう言った。

「まだこっちでは出ていないから、聞いてないけどね。どんな感じ?」
「大げさなサイケデリック調のサウンドですよ」
「残念だなあ。俺は、彼に、そういうのはやめて、ブルースをやれ、って言ったのに。ジミは、優れたブルース・プレイヤーだからね」

――これを読んで、確信しました。

ブライアンは、やっぱり、とにかく何が何でも「ブルース」だったのですね。

ブルースが好き、ブルースが演奏したい……、ずっとずっと、この気持ちを貫いていたのだと思います。

前出の2005年10月号のPLAYBOYで、レココレ編集長の寺田さんとの対談の中で、音楽評論家の萩原健太さんが、次のようなことを話しています。

何故、ブライアンがストーンズから外されていってしまったのか、ということについて、
「僕は音楽性の違いよりも、活動スタイルの違いのほうが大きいと思う」

つまり、みんなブルースが好きだったのだから、好きなミュージシャンに多少の違いはあったとしても、そこにそんなに大きな違いはなかったのではないかと。

「重要なのは、途中からビートルズのお陰で「自作自演」がポップ・ミュージックの主流になったこと。そこで機を見るに敏なオールダムはオリジナル路線にもっていったわけだけど、ブライアンは「好きな音楽をやれればカヴァーでもなんでもいい」という志向の持ち主でしょ? すでにカッコいい曲がたくさんあるんだから、それを自分たちなりに演奏すればいいという考え方。そういう部分のほうが、音楽性の違いよりも相容れないものだと思う」
(と、話しながら、初期の頃のストイックな真面目さを再評価すべきだと語っています)

とはいえ、ブライアンが全くオリジナルに興味がなかったのか、というと、そうでもなかったと思えるんですよね。
彼は彼なりに曲作りをしていたようですし。

それは同居していたリンダ・ローレンスの証言にもありますし、また、スチュも、
「(ブライアンの曲は)彼がソロでやるとしたら、なかなかイカす曲なんだが、ストーンズのスタイルにはそぐわないのさ」
と言っています。

また、ジャック・ニッチェ曰く、
「奴の曲の中身ときたら、落葉の公園とかなんとか、そんな代物なのさ」。

――あっ、この証言は、ブライアンが曲作りをしながら、
「自分の曲は感傷的過ぎないだろうか」
と悩んでいたというのと、ピッタリ。

ブライアンの曲作りについて、1989年8月24日のインタビューで、アニタが語っているのを引用します。
「ブライアンはたくさん書いてたわ。私の映画の音楽とか。でも彼は自分の書く曲に対してパラノイアだった。一晩中かかっていくつかの曲を書いても、翌朝それを自分で聴いてみると、どうしても気に入らない。それで、全部消してしまうのよ。見ていて怖ろしかったわ。私はブライアンに『その曲いいじゃない』とか言ったことがあるけど、彼は耳を貸そうとはしなかったわ。彼は自分の能力に自信が持てなかったのよ。ブライアンがミックやキースと一緒に書いているところは見たことがないわね。彼はいつも一人で書いていたわ。
彼はどんな楽器でも演奏できたのよ。それなのに、彼自身の音楽で残されたものが、私の映画のためのものたったひとつだけっていうのは、悲しいことだわ。彼はこの映画音楽を全然やりたがらなかったの。それで、私達はジミー・ペイジを呼んで、彼の手助けをさせたわ。そうでもしなければ、彼はどんなプロジェクトでもちゃんと完成させることができなかったのよ。私は絶対に、彼が自分でちゃんと完成させた曲っていうのは、ひとつもないと思うわ。さっき言ったように、彼はいつも一晩中かかって自分の曲を録音して、いろいろな楽器を使ってオーバーダビングしてたけど、翌朝にはきまって全部消してしまうんだもの。大体がブルースだったわね。初期の頃はブライアンはバンドにとって良きオルガナイザーで、ライブハウスの出演交渉とかを、マネージャーみたいにこなしてたのよ。まあとにかく、もし誰かがブライアンのソロ・レコーディングした曲っていうのを持ってきたりしたら、わたしはびっくり仰天するわね」

ストーンズから脱退後、ブライアンはコッチフォードの家で、曲作りをしていたのではなかったのでしょうか。

その曲の音源は、どこに行ってしまったのだろうと思っていましたが、ブライアンは作っては消して、を繰り返していたのでしょうか。

また長くなったので、後日に続きます。

ひとつ追記。
”初期の頃のストイックな曲”と言えば、今頃「Bye Bye Johnny」のブライアンの(だみ声)コーラスに気付きました♪

確かにこの頃の演奏には勢いがあるし、メンバーがとっても楽しんでいるのが伝わってきます。

更新報告はtwitterから!フォローお願いします!

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする