part1の続きです。
「ミック・ジャガーの真実」(クリストファー・アンダーセン著、福武書店)を参考にしています。
ブライアンとミックとキースは、「ローリング・ストーンズ」(1963年3月までローリングの”g”はついていなかった)として活動し始めた。
ミックはLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス)を中退するかどうか悩んでいた。
1962年、ディック・テイラーが王室芸術学校に入学するため、グループから抜けた。
当時ドラムスを担当していたトニー・チャップマンが友達のビル・ワイマン(既に結婚して、倉庫係として働いていた)を連れてきた。
12月7日、巨大なスピーカーとVOXAC30のアンプをひきずってやってきたビルは、ベースの腕前よりもストーンズが欲しくても買えなかったそれらの機材のおかげでグループの一員となった。
ミックは他の誰よりもスターダムにのしあがりたがっていたという。
……デビュー前のストーンズのメンバーで、死ぬほど必死だったのはブライアンだけだったと聞いたことがありますが、ブライアンよりもミックの方が必死だったのでしょうか?
でもミックはいつでも大学に戻れる立場にあり、ブライアンには何もなかったことを考えると、どちらかというとブライアンが一番必死だった、というほうが信憑性があるように思えます。
こうしたなかでミックは密かにリーダーの座を狙って動きはじめていた。体外的にはローリング・ストーンズのバンド・リーダーはまだブライアンだった。ブライアンは精力的に電話をかけまくってロンドン中のクラブにストーンズを売り込んだ。これは並たいていの仕事ではなかった。伝統のある老舗ジャズ・クラブのマネージャーたちににらまれたらナイトクラブ業界ではやっていけない。
大方の予想を裏切り、ジョーンズはサットンのレッド・ライオン・パブとかウインザーズ・リッキー・ティックといった場末のクラブの仕事をものにした。マーキーのハロルド・ペンドルトンは「ビジネス面の話になるとだれがステージを仕切っているかははっきりしていた。あのころはブライアンがボスだった。バンド・リーダーだったのは彼だ」と言っている。つまり支払いを受けるのも、そこから好きなだけピンハネするのもブライアン――ほかのメンバーにとってはあまり歓迎できない結果になるわけだ。ビル・ワイマンは「彼にだまされているのは知っていた。でも彼はすごく働いていたから多少の金をくすねたってぼくらは気にかけなかった」と後に認めている。
ミックは「誰がリーダーかなんて気にしたことがない」みたいなことを言ってなかったでしょうか?
ブライアンだけが「リーダー」にこだわっていたような、それでミックは特にリーダーなんて必要じゃない、というような感じだったかと思いますが。
そう言っていたはずのミックは、実は密かにリーダーの座を狙っていたのでしょうか。
ブライアンが他のメンバーよりも多くギャラを取っていた話は、リンダのブログの時に書きましたが、グループを売り込むために他のメンバーよりも多く働いていて、そのためにお金がかかっていたとしたら、「多く貰っていた」というより、必要経費だったのではないでしょうか。
リンダは「うお座はお金に執着心があるから」と語っていましたが、うお座って、そうですか??
ただ、必要経費だったにしろなんにしろ、”メンバーに内緒で”自分の取り分を多めにしてたのはよくなかったですね。
(でも言ってたら、反対された気も……^^;)
年が明け、ドラマーとしてチャーリー・ワッツの加入が決まると、現在のドラマー、トニー・チャップマンのクビを切らなければならなくなった。
ショーの後、機材を片付けながら、ブライアンとキースは突然、チャップマンにクビを宣告した。
チャップマンは自分が連れてきたビルにも一緒にバンドを出ようと声をかけたが、拒否されたため、一人、憤然と立ち去って行った。
不快なことから一歩距離をおく癖はこのときに始まったのか、この追い出し作戦を陰で指揮したミックは横で黙って事の成り行きを見ていた。
1963年1月14日、新生ストーンズ(ブライアン、ミック、キース、ビル、チャーリー、スチュ)はソーホーのフラミンゴ・クラブでデビューを飾ったが、客の反応は冷たかった。
その上、彼らはマーキー・クラブでの仕事も失ってしまう。
イーディス・グローブのフラットにこもる打ちひしがれたブライアンとミックとキースの行動は、風変わりというより、もはや異常の領域に踏み込んでいた。
ミックが16歳の黒人娘、クレオ・シルベスターとの仲を進展させようと必死になっていた頃、ブライアンは彼らの人生を決定的に変えてしまうような芸能界とのコネクションを作り上げていた。
ブライアンは激情タイプの白系ロシア人興行師のジョルジオ・ゴメルスキーと知り合ったのだ。
彼はリッチモンド郊外(ロンドンから列車で30分)のステーション・ホテルにブルースのクラブをオープンしたばかりだとブライアンに話し、そこでストーンズに演奏して欲しいと頼んだ。
ゴメルスキーはまずストーンズの生活を保障しようと自分の取り分を彼らにまわし、親代わりの役を買って出た。
彼は特にミックにぞっこんの入れ込みようだったそうだ。
毎回45分のストーンズのステージのラストは、ボー・ディドリーの「ドゥーイング・ザ・クロウダディ」だった。
ゴメルスキーはクラブの名前を「クロウダディ」に変えることにした。
ストーンズの人気はうなぎのぼり。
そしてストーンズの秘密兵器は初めからミックで、ミックは男にも女にもゲイにも受けた最初のパフォーマーだった。
いっぽうで鬼才ブライアンもグループにおける自分の存在をかけて闘っていた。IBCスタジオのレコーディング・エンジニアだった友だちのグリン・ジョンズを介してジョーンズはデモテープの収録の話をまとめた。彼らは三時間ぶっ通しのセッションで5曲(「ディドリー・ダディ」「ロードランナー」「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ラヴド」「ベイビー・ワッツ・ウロング」)をレコーディングした。しかし、このデモテープを聴いた七つのレコード会社にきっぱり断られてブライアンはがっくりしてしまった。
1963年4月13日「リッチモンド・アンド・トゥイッケンナム・タイムズ」紙にストーンズについてのこの世で最初の新聞記事が載った。
記事はミックを”グループの原動力”としていたが、ブライアンはそれでも大喜びをして、その記事をグループ・ファイルに入れて持ち歩き、機会があれば誰にでもそれを見せ、彼のグループは保守的なジャズ界に戦いを挑み、その戦いに勝とうとしているのだと説いていた。
ブライアンはグループのマネージャーはゴメルスキーで決まりで、彼と契約を結ぶつもりだとミックに言ったが、ミックは反対だった。
ミックはゴメルスキーは小物で、業界でも顔がきかない人間だと言い張ったのだ。
ストーンズがデビューするより先に、ビートルズが出てきて強烈なインパクトを世間にあたえた。
ミックはビートルズがストーンズよりも先にヒットを飛ばしたと聞いて、悪態をついた。
4月14日、ストーンズのステージをビートルズの4人が突然、見に来た。
ビートルズはストーンズの演奏に衝撃を受け、その後、イーディス・グローブで(ビートルズ+ストーンズ)9人は、ビールを飲みながら将来の夢と希望を語り合った。
ブライアンは見るからにかしこまり、彼らのお気に入りのジミー・リードの音楽をジョン・レノンがあんなのはクソだと軽く片付けても反論しなかった。ブライアンはビートルズサイン入り大判写真をもらい、それを汚れた壁に貼り付けたそうだ。
……こういうくだりを読むと、以前、「ブライアンとジョン・レノン」のブログでも書きましたが、ますますブライアンとジョンが組んだとして、うまくいったのだろうか、と疑問を持ってしまいます。
知り合ってから数年経って、二人の関係も変わっていたのかもしれませんが。
それにあの頃のジョンのレコーディングには、ヨーコもついてきたかもしれませんし。
この本によると、親密になったのはミックとジョン・レノンだけだった、そうだ。
ゴメルスキーに呼ばれて有力な専門誌「レコード・ミラー」の編集者ピーター・ジョーンズがストーンズの演奏を聴きに来た。
演奏後、ブライアンとミックがやってきた。
ブライアンは自分がリーダーだと思われたかった様子で、それがミックの神経を逆なでしていた。
ミックは「ゴメルスキーは自分たちのマネージャーではない」と言った。
その後、ピーター・ジョーンズから「ストーンズがマネージャーを捜している」と聞いたアンドリュー・オールダムは目を輝かせた。(彼は一流のエージェント、エリック・イーストンからオフィス・スペースを借りたばかりだった)
ゴメルスキーが外国に行っている間に交渉は着々と進んだ。
(歌唱力がないため)ミックをはずしたらどうかというイーストンの提案にブライアンは賛成したが、アンドリューは反対した。
そしてルックスが適さないという理由で、アンドリューはイアン・スチュアートをメンバーからはずした。
ブライアンもミックも異議を唱えなかった。スチュはその後、ストーンズのツアー・マネージャーになる。
自分の留守中にクーデターが起こされ、自分が追い出されたことを知って、ゴメルスキーは怒り、深く傷ついた。
人を利用しておいて、うしろからバッサリ切ってしまうというジャガーの生き方の萌芽がここにある。アレクシス・コーナーがはじめて歌手の仕事をまわしてくれると、すぐにミックは彼のことは個人的には二流扱いした。何かあるたびにそのつどだれかが棄てられた。トニー・チャップマン、スチュー、そしてゴメルスキー。ミックはいつもうまく立ちまわり、けっして前面には立つことはなかった。
1963年6月7日、ローリング・ストーンズは「サンキュー・ラッキー・スターズ」という音楽番組で「カム・オン」を口パクで歌い、初めてのテレビ出演を果たした。
9月、ブライアン、ミック、キースはイーディス・グローブを出た。
ブライアンは当時の恋人リンダ・ローレンスのウインザーにあった彼女の実家で家族と同居することになった。
ミックとキース、アンドリュー・オールダムはメイプスベリー・ロードのアパートに移った。
そこにミックの恋人クリッシー・シュリンプトンも乗り込んできた。
同居するようになったミックとキース、アンドリューはブライアン抜きでグループの方針を決めるようになっていった。
後にストーンズの友人となり、広報マンにもなったキース・オルタムは言う。
「ブライアンはバンドのスポークスマンは自分だと思い込み、ミックは一歩譲ってブライアンの好きにさせていた。彼はブライアンのことを少し冷ややかな目で見ながら、チャンスの到来を待っていたんだ……」
ミックはメンバーの女性関係は全て隠す、というアンドリューに賛成した。
ビルはインタビューで妻や子供のことを話すのを禁じられ、ブライアンは妊娠中のガールフレンド、リンダのこと、また彼の私生児とその母親たちについて黙っているようにと言われ、チャーリーは長年の恋人シャーリーとの結婚を諦めろと言われた。
ストーンズのメンバーは自由気ままな独身男性でいなければならなかったのだ。
そしてミックは恋人のクリッシー・シュリンプトンとの関係を隠し、そのシュリンプトンに隠れてクレオ・シルベスターにラブレターを書き続けていた。
……なんだか、どっちもどっちなわけですが、ストーンズを売り込むために必死に頑張っていたブライアンが気の毒に思えてきました。
ブライアンが不器用なのか? ミックが器用すぎるのか?
ブライアンは何度もミックをはずそうとしていたのですから、どこかでミックに対する警戒心があったのかもしれません。
ミックをはずそうとしたのは「歌唱力がなかったから」という説もありますが。
成功するためには、このボーカリストじゃダメだ!と思っていたのかも、しれません。
しかしストーンズがこうして何十年も活躍していることを考えると、シンガーというのはただ単に「歌唱力がある」だけではいけないんだ、とあらためて思ったりもします。
さて、表面上は何となくうまくやりながら、くすぶっていたブライアンとミックの仲は、どうなっていくのでしょうか?
というところで、続きは後日。