ブライアンとミック・ジャガー part3

7月26日はミックの誕生日でした。
HAPPY BIRTHDAY~、ミック♪

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さて、
part2の続きです。
引続き、「ミック・ジャガーの真実」(クリストファー・アンダーセン著、福武書店)を参考にしています。

「オー、ミスター・シャンプー」ブライアンの髪の毛をふざけてかき乱しながら、ジャガーは大げさに言った。「あんたの髪、今日はとくにス、テ、キ」。ストーンズは不潔だ、というマスコミの記事が出てからというもの、ブライアンは一日に二回もシャンプーしていた。ジャガーとリチャーズがジョーンズをからかって楽しんでいたネタは、この突然のシャンプー狂いのほかにもたくさんあった。アンドリュー・オールダムにそそのかされて、ふたりは今やグルになってジョーンズの目の下のたるみから太めの脚に至るまでからかっては楽しんでいた。ビル・ワイマンは言う。「ストーンズの仲間に入るにはかなりの根性がいったね。気が弱いやつ、感じやすいやつは、ミックとキースが連発する悪口にはとても耐えられなかっただろう」。ワイマンによるとふたりの言葉にはいちいち「毒とトゲがあった」。このしつこい、針で突き刺すような責め苦は、グループ内で権力を失いつつあると自覚しながら酒と女に溺れた日々を送っているジョーンズにはよけいにこたえた。喘息の持病があるブライアンは、呼吸困難を防ぐためにますます薬にたよるようになっていた。イアン・スチュアートは当時を思い出して、「ゼーゼーというあのひどい喘ぎ声で、彼は顔面蒼白になって吸入器を捜すんだ。それを見ているとこっちまで怖くなった」と語っている。喘息は、ブライアンがリハーサルやステージをすっぽかす原因となった一連の病気の一つにすぎない。みんなはジョーンズの言い訳に慣れっこになってしまい、彼の休み癖を憂鬱症のせいにした。しかし真相を言うと、ジョーンズはおそらく未診断のてんかんに苦しんでいたと思われる。

ふ~、いきなり引用文が長すぎになってしまいました。

今までのブログで、ブライアンのまわりにいた人たち、例えばマリアンヌやリンダ(ローレンス)やアニタ、またジョン・レノンやジミ・ヘンドリックス、ボブ・ディランのことについても触れてきましたが、今回のブログは書いていて、ストレスを感じています。

なんでしょうか、このブライアンの周囲の何の救いもないような陰湿な雰囲気は。

息苦しくなってきます。

冒頭のブライアンの髪の毛をかき乱すあたりなどは、ブライアンファンとして、
「ブライアンになにすんだーーーっ!」
と、思わずミックの手を払いのけたいような衝動にかられます。

……ま、気持ちを落ち着けて先を続けましょう。
(他の本を読むと、また違う解釈をしているものもありますし)

引用文の最後の部分の「てんかん」は、ビルの著書に書かれていた「側頭葉てんかん」のことでしょう。
(というか、この著者がビルの本を参考にして書いているような?)

これを読むと、やはりブライアンは自分がこの病気であるということに気づいていなかったということになります。

ストーンズをデビューさせるため、必死になって働いたのに、身体は弱いし、仲間からは毒を吐かれるし、グループ内の権力も失っていき……、強烈なストレスだったでしょうね。

でも、ここまで書いてきて思うのは、相手が悪すぎたってこと。

だってミックは要領よさ過ぎです。

それと、同居もしていた時期もあり、ブライアンと長く一緒にいたはずのキースがブライアンの喘息の発作は見たことがない、と言っていたと思いますが、一緒にいた時間がキースほどは長くはないと思われるスチュは、ブライアンが喘息で苦しんでいる様子を見ていたのですね。

キースが気づかなすぎる人なのか?

こういう細やかすぎないところが、ある意味キースは、ミックにとってもブライアンにとっても付き合いやすい人なのかもしれません。

さて、カバー曲ばかりではなく、バンドのオリジナル曲が必要だと言ったアンドリューにブライアンは反対していたというような話がありますが、1964年4月17日<テル・ミー>がリリースされた数ヶ月前に、

ブライアンはグループのひとりひとりがストーンズ自身の歌を書くべきであり、その著作権は全員で分配すべきだと提案していた。そのような目的で、アンドリューとミックはナンカー・フェルジ・ミュージック株式会社を設立した。

とあります。

つまりブライアンは、このままだとアンドリューとミックとキースの好きなようにされてしまう、と気づいていたのではないでしょうか。

それで早めに手を打たなければと思い、ストーンズの曲の著作権は全員で分配すべきだと提案していた。

ところが、いつのまにか全ての曲は、ミック&キースのみのクレジットになってしまうわけです。

ミックを切ろうとしていたこと、ナンカー・フェルジを作ろうと提案したこと……、ブライアンも決してのんびりし過ぎていたのではないと思えます。

気づいていなかったわけでも、不安を感じていなかったわけでも、何も手を打たなかったわけでもなかった。

しかし、次第にブライアンの力は押しつぶされていく。

当時のブライアンにはストーンズがとにかく何よりも大切で、絶対に成功したかったのだろうと思うので、ただノンキに「酒と女に溺れた生活」を送っていたわけではなかったでしょう。

ここで、マリアンヌ・フェイスフルとストーンズとの出会いがあるのですが、先日のマリアンヌのブログで書いたばかりなので、省略します。

ストーンズはその放縦な外見のおかげでスターになっていった。

ティーン・エイジャーのファンがメイプスベリーー・ロードの家の外に立っていたり、時には家の中にまで入り込んでいたりするので、ミックとクリッシー、キースはアンドリューを一人残して、ハムステッドのホリー・ヒル10番地aのアパートメントに移ることにしたが、そこもすぐにファンに見つかってしまった。

夏も終わろうとする頃、ストーンズの訪れる先々で、ミックのアクションにファンは狂喜し、収拾のつかない事態が引き起こされていた。

秋、チャーリー・ワッツはミックにそむいて恋人のシャーリーと結婚。

ミックは、バンドのイメージを台無しにするのかと、怒り狂った。

ストーンズを仕切っていたのはアンドリューとミックで、ブライアンのガールフレンドが彼の5人目にあたる私生児を妊娠したと言ってきた時には、ただちに手を打った。

ブライアンに内緒で700ポンドを渡し、子供のことは誰にも話さないと約束させたのだ。

ブライアンはバンドの中で、二番手格の立場に落とされていった。

ストーンズと長年と渡って組んだキース・オルサムは言う。「ブライアンはコンサートをサボったり、女を殴ったり、いわばけんかばかり売って、そしてあの痛ましい習慣に落ち込んでいったんだ。どうしておれは嫌われるんだ? どうしてみんなおれに反対ばかりするんだ? しょっちゅうそう言ってたよ」

最初のアメリカ・ツアーは失敗に終わったが、続いたヨーロッパ・ツアーで成功した彼らは、再びアメリカ・ツアーに出る。

その時のパーティーでミックは初めてアンディ・ウォーホルに会い、二人は以後20年以上の付き合いをすることとなった。

当時イギリスでは禁止されていたマリファナ、LSD、コカイン、ヘロイン、モルヒネといったドラッグ類がアメリカでは簡単に手に入った。

アンドリュー、キース、ブライアンにとっては、これが自己崩壊へと至る苦しみの道程への第一歩となった。

アンドリューに頼まれてマリアンヌ・フェイスフルの写真を撮っていた若き写真家ジェレッド・マンコヴィッツはストーンズのアルバム「ディッセンバーズ・チルドレン」のジャケット撮影を依頼され、小躍りした。

出来上がった写真を見て、マンコヴィッツは驚いた。

「ミックはまるで目立っていなかった。インパクトがあったのはブライアンだった。彼には何かこちらの目を引きつけるものがあった」

「ジョーンズは魅力的ではあったが豹変する男だ。ブライアンはかなり変人で、気むずかしく、なにを考えているのかつかめない。彼には残酷なところがあり、他人の失敗を嘲るのが好きだった。たとえばだれかがつま先をぶつけて痛がっているのを見て喜ぶ、それがブライアンだ」

ブライアンは写真撮影のとき、わざと顔を隠したり、おどけた顔をしたりした。

「あれはすべてみんなの関心を引くための絶望的な行為だったと思う」

ブライアンの不安症にはそれなりの原因があった。彼はグループのなかでいちばんのカリスマ性と音楽の才能を持っていたが、ジャガーにその光輝を奪われてしまった。1965年4月、ストーンズが三回目のアメリカ・ツアーに乗り出した際も、アメリカのどこに行ってもポスターや劇場の予告版には「ミック・ジャガーとローリング・ストーンズ来たる」と書かれていた。ジョーンズが結成したバンドがいつのまにか砂のように彼の指の間からすべり去っていったのだ。
ブライアンにとってそれは忘れ去られる日への長い道程のはじまりだった。その後数年間にわたって、ミックはただの一度もステージに穴をあけたことはなかったが、ブライアンは50回以上はサボっている。

うーん、サボりたくてサボったのではなく、ステージに穴をあけてしまったのには、何か理由があったと思うのですが。

それにボーカルは目立つのですから、ミックがバンドの顔になったのは仕方がないし、別にそのこと自体でブライアンはそれほど嫉妬にかられたりしてはいなかったように思うのですが。

ブライアンが不安定になっていったのには、そんなことよりも、もっと別の理由のほうが大きかったはず。

あと、性格が豹変する、というのは、彼が患っていたのではないかとされる「側頭葉てんかん」の症状のひとつ、”性格変化”かもしれないですね。

売れている割にはお金が入ってきていなかったストーンズに、ニューヨーク出身の公認会計士アレン・クラインが言葉巧みに近付いてきた。

ドラッグで判断力が鈍っていたアンドリューは、彼の計画にのった。

アンドリューはストーンズの出発にあたって資金提供をし、よきパートナーでもあったエリック・イーストンのクビを切ることにした。

アンドリューもミックも彼をクビにすることを、なんとも思わなかったそうだ。

そしてミックはここでも、解雇はアンドリューに任せて、自分は表に出ないようにした。
(どちらかというとブライアン寄りだったエリック・イーストンがいなくなったことにより、ブライアンは更に孤立することになったとも言われている)

1965年のアメリカ・ツアーは連日昼夜逆転の生活で、コンサートが終わると次の都市へとび、朝の4時か5時に着いてホテルのベッドに倒れこみ、午後3時か4時に起きるとコンサート会場に向かうという過酷なものだった。

フラストレーションがたまり、ミックはクリッシーに会いたくてたまらず、彼女との電話が終わると涙ぐんでいたほどだった。
(この年にブライアンは、アニタと知り合う)

1966年6月、ミックは仕事のし過ぎと、気性の激しいクリッシー・シュリンプトンとの生活に疲れきり、ノイローゼに陥った。

12月、ついにミックはクリッシーとの仲を清算する決心をした。

彼女はミックの新しい社交的なつきあいには今ひとつ力不足だったということもあった。

ミックはクリッシーと一緒に行く約束をしていたカリブへの飛行機の切符をキャンセルし、マリアンヌと一緒にお昼を食べに行ったのだ。

12月18日の夜、クリッシーは睡眠薬を多量に飲んで自殺未遂をした。

ミックは病院の治療費の支払いを拒否し、クリスマス・イブの日、二人が暮らしたフラットからクリッシーの荷物を全て運び出させた。

クリッシー・シュリンプトンは言う。
「彼は優しくもできたし気遣いもみせることができたけれど、口がうまくて独占欲が強くきわめて支配的な男だった。ミックというのは言葉で人を傷つける天才よ。彼の口は悪意の泉ね。事実が一つ。彼は女が嫌いなのよ。好きになったことは一度もない」

ミックの書く詞は女性蔑視のものが多いと言われている。

例えば暴力亭主の賛歌となった「アンダー・マイ・サム」。

「ステュピッド・ガール」では、”女なんて金のためにゃなんだってやるんだ、見ろよ、あの馬鹿女”と歌う。

ストーンズ60年代の3大スウィート・ソングのひとつと言われている「レディ・ジェーン」だって、歌詞を見たら、
「なんだ、結局お金か……」
って感じで、がっくりしたものでした。(レディ・ジェーンはクリッシーをモデルにして書いたという説アリ)

ミックは女性のことを「グルーピー」のようにしかみていないという話もある。

職業柄、ミックは特に、自己愛が強いのかもしれませんね。

しかしクリッシー・シュリンプトンとの別れ方は冷たい……。

中途半端に優しくされるよりはいいとう考え方もあるかもしれませんが、でも、長く付き合っていたというのに冷たすぎません?
(数年後にミックから受け取った600通のラブレターの出版を目的に、ある女性誌がクリッシーに近付いた際、ミックは訴訟を起こして勝利をおさめたそうだ。元々手紙を売るつもりなんてなかったクリッシーはこのことに怒り、手紙を全て箱につめてミックのところに送り返したとのこと)

クリッシー・シュリンプトンが自殺未遂をした同じ日に、ミックとブライアンの共通の友だち、ギネス家の末裔のタラ・ブラウニーが交通事故で死んだ。

アニタとの仲が終わった後、ブライアンと付き合うことになったスキ・ポアティエがその時、タラの恋人として同乗していた。

というところで、続きは後日。

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