part3の続きです。
今回は1969年のブライアンの死についても触れます。
「あの胸にもういちど」
「三姉妹」
「ハムレット」
一見、精力的に仕事をこなしているようだったが、彼女の精神状態のバランスは危うくなっていき、この頃からヘロイン中毒は始まっていた。
ハムレット(1969年)のオフィーリアは、ヘロインでラリッた状態で演じていたそうだ。
「Sister Morphine」をミックと2人で書いた。(1968年)
マリアンヌのシングルのB面として発売されることになったが(ミックがアコースティック・ギター、チャーリーがドラム、ジャック・ニッチェがピアノ、ライ・クーダーがギターで参加)、ドラッグ擁護の歌と解釈され、レコードは引き上げられることになってしまう。
ストーンズが同じ曲を出したとき(1971年『STICKY FINGERS』のアルバムの中の1曲)には、誰も何も言わなかった。
「男と女はまったく違う尺度で生きてることを知ったわ」
(キースがアレン・クラインに知らせたことにより、最初、この曲のクレジットに入っていなかったマリアンヌの名が入れられることになる)
当時のドラッグの状況について、マリアンヌは語る。
「若くてお金を持っている人の周りにはドラッグを持った人間が集まってきた。その中にいると、悪いことをしていると思わない。気づいた時には手遅れになってる」
そして、そのドラッグの犠牲者として、1969年7月3日のブライアンの死について触れている。
「彼のことは話したくない。つらすぎるわ。才能にあふれた繊細な人だった。ドラッグで輝く才能を無駄にしてしまった」
(DVD中に、ブライアンの映像が出てきますが、ブライアンの死に関する映像を観るたび、涙がこみ上げてきてしまいます)
マリアンヌがステキだなと思うところは、このDVDでもそうですが、誰かの悪口を声高に言わないところ。
実際に別に悪く思っていないから言わないのかもしれませんが、ブライアンに対してのコメントにも優しさを感じます。
彼女の人間的魅力のひとつだと思います。
マーク・ハドキンソンの著書から、ブライアンの死に関して書かれている部分を紹介します。
1969年7月3日、ロンドンから南へ80キロほど行ったアッシュダウン・フォレストのはずれにあるコッチフォード・ファームの自宅のスイミングプールで、ブライアン・ジョーンズは溺死した。血液100cc中にアルコール140ミリグラム、アンフェタミン172ミリグラムを含んだ彼の身体は、プールの底に沈んでいた。プールの近くには、この農場の前の持ち主で『クマのプーさん』の作者、A・A・ミルンが創作した、イーヨーやプーやコブタの像をまわりに配した日時計があった。
これまでジョーンズの放蕩ぶりを騒ぎ立て、正義を振りかざして彼を断罪してきた新聞は、奇妙にも感傷的になっていた。デイリー・エクスプレスはもっとも同情的で、ジョーンズもかつては罪なき赤ん坊であり、初めてステージに立ったのはストーンズと一緒ではなく、ウェスト・グロースターシャー女性協会の年に一度のショウで、美しい赤ん坊部門に選ばれたときだったなどという、突飛な記事を掲載した。
ローリング・ストーンズのメンバーのうち、マリアンヌにとって、ジャガーは恋人であり、リチャードは魅惑の対象であり、ブライアン・ジョーンズは友人だった。彼女はグループ内の消耗するゲームを目撃してきた。その犠牲者だったジョーンズは、自らのバンドと意志を奪われてしまった。生まれつき強い性格を持ったジャガーとリチャーズの猛攻撃にもみくちゃにされていた彼と、マリアンヌのあいだにはある種の共感が生まれていた。「ブライアンは救いがたいほどの混乱にあり、一方の彼らは非常に冷静だった。ブライアンはドラッグに溺れすぎて、身の破滅を自ら招いてしまった。キースがそんなふうになるずっと前にね。ブライアンの死に対するキースの反応は、自分がブライアンのようになることだったような気がするの。だけれど、キースは肉体的にとても強かったので、ボロボロになっているようには見えなかった。ブライアンは本当に崩壊していたわ」1987年にマリアンヌはスピン誌にこう語っている。
キースはブライアンの死にショックを受けて、自らもあのようなドラッグに溺れる生活を送ることになってしまったのでしょうか?
でも、見方によっては、ブライアンの死後、ミックもキースも、生前の壊れたブライアンに近付いたようにも感じられます。
ただ彼らは、(マリアンヌも言っている通り)肉体的にも精神的にも強いので、ブライアンのような壊れ方をするところまではいかなかったのでしょう。
ジョーンズは知能指数が133もあるインテリだった。だが、彼にはほかの二人、あるいは以前のガールフレンド、パレンバーグのような洞察力に欠けていた。彼らは気の毒なほどに彼を服従させた。ジャガーによって無意識のうちにアイデンティティをむしばまれてしまっていたマリアンヌもまた、ジョーンズの苦境を理解していた。バッググラウンドや生き方が似ているところから、二人は楽にわかり合えたのだろう。
ジョーンズの死は、マリアンヌにとって親しい友人を失っただけではなかった。司法解剖によると、彼の肝臓は通常の二倍の重さがあり、心臓は肥大し、慢性の気管支炎の形跡があった。ドラッグとアルコールがいかにひどい影響を与えるか、マリアンヌに思い出させるものだった。
ブライアンの死後、20時間もたたないうちに、ミックとマリアンヌは招待されていたパーティーに出席した。
全員が白い服を着てくるように、というパーティだったが、ただひとり、マリアンヌだけは黒い服を着ていた。
自分の気分にぴったりな色は黒しかないし、ほかの色では自分の気持ちを偽ることになると、語ったそうだ。
ドラッグとアルコールでやっと支えられていたマリアンヌは、陽気なパーティーの仲間入りをするたった一つの理由も考えつかず、霊安室に置かれたジョーンズのことを思うばかりだった。
ブライアンの死の2日後、急遽ブライアンの追悼コンサートとなったハイドパークでのストーンズのコンサートがあり、その時のマリアンヌはこれまでで一番短く髪を切っていた。
マリアンヌはこの日、ジョン・ダンバーに対して、正式な離婚の申し立てをおこなった。
コンサートを終え、ブライアンの葬儀(7月10日)に出席することも出来ず、ミックとマリアンヌは映画の撮影のため、オーストラリアに向かう。
――この後、自殺未遂、ミックとの別れ、ドラッグによる転落……、と様々な苦難が彼女を襲うことになるのですが、続きはまた後日に。<(_ _)>