さて、タイトルにした「死人のような笑顔」。
ブライアン・フリークの皆さまはこの写真をご覧になったことがあるでしょうか。
この写真はプロの写真家(マイケル・クーパー)による、ブライアンの最期の写真と言われています。
この写真、どう思いますか?
私には、ブライアン、カッコいい!とは思えないし、
「これがブライアン?」というくらい、違う人のように見えてしまいます。
最期の写真ということで、
なんとなく死相が漂っているような、
すごく年老いてしまったブライアンのように思えます。
人が亡くなる前というのは、こんなふうに写ってしまうものなのか、と。
そう、それこそ、”死人のような笑顔”だ、と。
この写真について、ちょっと思いついたことを書きます。
ブライアンは亡くなる前、モロッコのジャジューカの演奏を現地で録音しました。
(ブライアンが亡くなったのは1969年、ジャジューカの録音は1968年)
録音する際には、彼らの儀式に参加したのでしょう。
儀式では生贄として、動物を捧げます。
ブライアンは動物好きでした。
目の前で動物が生贄として殺され、その肉を食べる、ということを、ブライアンはどう感じたでしょうか。
現地の人々にとって、生贄は神様に捧げるものという解釈で、決して残酷なことではないのでしょう。
でも、そういった習慣がなく生きている人々にとっては、その光景を目の前で見るというのは、大変ショッキングなことだと思います。
動物好きなら尚更のこと、忘れられないくらい、人生観が変わるくらいショックなことではないかと。
ジャジューカの人々は、ブライアンを神様のように敬い、毛皮をプレゼントしたということです。
この写真でブライアンがまとっている毛皮、
もしかして、生贄の犠牲になった動物の毛皮だったりして?と思いました。
そうではないにしても、毛皮のコートがどのように作られるのかを考えたときに、
生贄として神様に捧げられる光景を思い浮かべてしまったブライアンは、心穏やかではいられなかったのではないでしょうか。
生贄になった動物たちのことを想うと、心がとても傷んだのではないかと。
しかし、ジャジューカの人々は悪意ではなく、尊敬の念をこめて、ブライアンをもてなし、毛皮を贈ったのです。
動物への想い、ジャジューカの人々の尊敬の気持ちに報いたい想い、
それらが重なって、毛皮をまとうブライアンは、このような”死人のような笑顔”になってしまったのではないかと思いました。
実際、ジャジューカからの招待に、仕事の都合で行けなかったことを、ブライアンはとても気にしていたといいます。
「本当はここにいるべきじゃない、自分は行かなくちゃいけないんだ」
というようなことを言っていたと。
ブライアンは自分を敬ってくれるジャジューカの人々の気持ちに真摯にこたえたい、と思っていたのです。
ジャジューカの人々たちとの文化の違いによるこのようなことたちに加え、
当時のブライアンには、自分の中でコントロールできない想いたちに翻弄されていたように思います。
ストーンズで活動するということ。
自分の目指す音楽。
世間の、自分に対するイメージ。
女性たちとの関わり。
ストーンズのメンバーだということで近寄ってくる信用できない人々。
もはや、自分の人生を自分でコントロールできなくなっていると感じたブライアンは、
コッチフォードの地に安息を求め、
健康面も含め、まず自分自身を取り戻すことに取り組もうとしていたのではないでしょうか。
とはいえ、他者との関わりを大切に思っていたのは、
ブライアンがコッチフォードのバーを頻繁に訪れ、地元の人たちとの交流をはかっていたことから推測できます。
自分一人で生きているわけではない、
他者との関わりはとても大切である、
でも、周りに振り回されて、自分を見失ってしまうのではなく、
まずは自分自身を取り戻し、自分の人生を自分でコントロールできるようにならなくてはいけない、
コッチフォードに暮らすブライアンは、こんなふうに考えていたのではないかと。
しかし、自分の人生を仕切りなおす前に、亡くなってしまったのですが。。。
などと、いろいろと考えていたら、ブライアンに、生きていく上での大切なことを教えてもらったような気持ちになりました。
ありがとう、ブライアン。
いえ、もしかしたら書いたこと全て、
私の思い込み、勘違いかもしれないですが。
コメント
私もそういう事なのかなぁ~と思ったりしますよ(^-^)b
♪ライブが待ち遠しいデス!
ちえさん
は~い
現場でお会いしましょう(笑)