「おのれ、姦物(かんぶつ)ーっ」
っていうのは、最近録画してまでチェックしているドラマ「サムライ・ハイスクール」に出てくる台詞。
サムライ、カッコいい!^▽^
11月16日、ジャジューカのリーダー、バシール・アタールは、ニューヨークでのロバート・パーマーの功績を讃えるイベント(?)に参加したらしいです。(ロバート・パーマーは1993年に亡くなっています)
アフリカつながりの情報。
東京都写真美術館でセバスチャン・サルガドの「アフリカ」という展覧会が開催されています。
12月13日までです。
行ってきましたが、それぞれの写真の背景に何かが見えるような重みを感じました。
さて、
今回”ジャジューカその後を考える”というサブタイトルをつけてみましたが、私はふと思いついたのです。
ブライアンはジャジューカの音楽を録音した初めての西洋人でした。
「ブライアン・ジョーンズ 孤独な反逆者の肖像」(マンディ・アフテル著)によると、ジャジューカどころか、ブライアンは民族音楽を録音した最初のロック・スターだったそうです。
友達だったロニー・マネーの証言です。
「ブライアンは他民族の音楽にとても興味を持っていた」
そうで、
「注目すべきことは、それが60年代のあの時代にってことなのよ。だれもが皆、めかしこんで面白おかしく遊びほうけることにしか興味のなかった時代によ。
ところがブライアンのすばらしかったところっていうのは、彼は自分だけがこの世の中の中心にいるんではないって考えていたところだわ。彼は世界中のいたるところにいろいろな人が暮らしていて、シベリアのはずれにだって、自分よりもすぐれていて、だれも聞いたことのない楽器をすわって演奏している人がいるということを知っていたのよ。実際に彼はそういう話を私にしたことがあるの――そういう人たちを利用しようっていうつもりではなく、そういう人たちから何かを学びたいっていう気持ちだったの」
素晴らしい、ブライアン、尊敬します!
ブライアンはグナワの音楽、ジャジューカの音楽を録音することにより、ポピュラー・ミュージックの世界に新しい道を開きました。
そして、
1975年1月の『ニューヨーク・タイムズ』日曜版に、↑で名前が出てきたロバート・パーマーの記事が載ったそうです。「恍惚的音楽――70年代の趨走」。
要約すると、
「西洋人はとっつきやすい音楽を好んできたが、このところ恍惚的音楽が受け入れられてきている。
恍惚的音楽とは、組織的な音楽的反復に対する様々なアプローチのことで、
例えばモロッコの複合的ドラミングは、対照的なリズムから成っている……」
という感じ。
ロバート・パーマーの記事はややこしいですが(私の要約が悪いのか)、
とりあえず、す、すごい。
ジャジューカを最初に録音したのはブライアン、それが当時は画期的なことで、
ロバート・パーマーがジャジューカに関心をもち……、
ということは、彼とジャジューカを結びつけたのは、ブライアンってことでしょうか。
それが、先日のイベントにつながっていると?
で、このタイミングで、ちょうど私が、この部分の記述に気付いたと。
――もしかしてブライアン、
「元々は俺がジャジューカを世の中に紹介したのが、今につながってきてるんだからね」
なーんて、さり気なくアピールしてません?
前にも紹介しましたが、これらの録音に同行したエンジニアのグリン・ジョンズの証言。
「ブライアンのアイディアのすばらしかった点は、グナワの音楽を可能なかぎりたくさん録音し、ロンドンへ持って帰ってそれを聞きなおし、使えそうなものを選び出し、それを今度はアメリカに持っていって黒人のソウル・ミュージックのリズム・セクションを連れてきてダビングしようとしたところだ。グナワのミュージシャンは黒人だったから――彼らはもっと色の薄いアラブ人やベルベル人とはまったくちがっていたんだ。ブライアンは、アメリカのブラック・ミュージックはアフリカを起源にしているという考えを持っていたんだ――これは民族的にも、同様に音楽的にもシンボリックな言い方だよね。その点において非常に意味深い考えだったよ」
ブライアンは自分の心を掴んだ音楽、黒人のブルースの起源がアフリカにあると考えたのですね。
それで、ジャジューカにも興味を持ったのです。
ブライアンはジャジューカ村の人々に歓迎され、慕われ、感謝されたそうですが、
ブライアンの目的はそういうことではなかったでしょう。
感謝されることに、悪い気はしなかったでしょうが、
ブライアンは、興味を持ったアフリカの音楽をもっともっと知っていきたかったのではないでしょうか。
そこで話は戻りますが、私がふと思いついたことです。
”ブライアンがもっと長く生きていたら、ジャジューカに留まらず、アフリカの黒人が演奏している音楽に次々に興味を持っていったのではないか。”
実際モロッコ旅行中にも、道端で知らない楽器を演奏している人がいると、言葉もつうじないのに、しゃがみこんでその演奏者とコミュニケーションをとろうとしていたという証言もあります。
私は民族音楽のことを知ろうと、行ける範囲で、ライブに足を運んだりしていますが、新たな発見があって、本当におもしろいんです。
「こんなに知らない楽器があるのかー」
「こんな音が出るんだー」
「音楽って、こんなふうに楽しむんだー」
って。
ミュージシャンでない私ですら興味深く思うくらいですから、ブライアンだったら、もっともっと深くのめりこんでいくのではないかと思うのです。
ブライアンは悲しいことにジャジューカまでで終わってしまったけれど、私はジャジューカから始まって、その他の国の音楽のライブを聴きにいっている……、
つまり、これって、もしかして。
ブライアンが生きていたら、実は体験したかった「ジャジューカその後」を、私、体験しちゃってるんじゃないかしら!なんて、思ったのです!!(もちろん私はただ聴いてるだけで、録音などはしていませんが)
では、興奮してきたところで、アフリカ大陸をご紹介してみましょう。
一言でアフリカ、と言ってもアフリカ大陸は大きいのです。
(国が多すぎるので、このブログで名前を出す国以外、省略してしまいました;)
ジャジューカのモロッコは一番上(つまり北)。
地中海を挟んでスペインがあります。アフリカの中でも、ヨーロッパに近いんですね。
そして来年2010年、ワールド杯が開催される南アフリカは一番下(つまり南)。
同じアフリカでも、こんなに離れているのです。
part15で紹介したジンバブエは南アフリカと隣接しています。
エチオピアン・ダンスのワークショップにも参加しました。
何度か書いているアニャンゴさんが演奏するニャティティの国、ケニア。
先日行った、東京都写真美術館のミュージアム・ショップにアフリカに関する本がいくつか置かれていて、
何気なく最初に手に取った本が「アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々」(松本仁一・著、岩波新書)でした。
モロッコの話題は出てきませんが、南アフリカやジンバブエの名前が出ていて、
「これは、この本を読みなさいってことかも!」
と即購入。
とてもわかりやすくて面白い本でした。
音楽のことに触れていると、自然にその国についても知りたくなります。
もしかしたら、ブライアンも、ジャジューカ以降、アフリカの音楽を聴くうちに、それぞれの国のことを知っていくことになったかもしれません。
「政治家たちは足の引っ張り合いなんてしてないで、よりよい日本にしていくために協力していけばいいのに」
なんて子供じみた意見を言ってしまうような私は、政治について語ることはしたくありませんが、アフリカには大変な状況になっている国があるようです。
犯罪の多発は投資にブレーキをかけ、経済の発展を妨げる。経済が発展しないと貧困は解消されない。貧困は犯罪を生む。悪循環が続いている。
政治のことは語りたくないと言いながら、少しだけ。
この本を読みながら私が思ったことは、
「国の問題と言っても、基本的には個人の問題と同じなんじゃないかな」
ということ。
例えば自分の力だけじゃどうにもならなくなって、助けを必要としている誰かがいるとします。
周りの人たちが援助をしたとしても、結局はその本人がやる気を取り戻して辛くても頑張ろうと決意しなければダメだってことです。
人と人は支え合って生きていて、支えが必要なときがあるのを否定はしませんが、
「周りが助けてくれるから」
っていう、依存心が強いままでは自立はできないのです。
国の問題だって、同じじゃないかと思ったのです。
周りの国々が援助をしても、結局はそこの国民がやる気を出さなくちゃダメなんじゃないかなって。
そんなことを思いながら読みすすめていたら、
素晴らしいいいいー!
貧しい生活を強いられていた国民たちの中から、
「自分たちの生活を、自らの努力で変えて行こう」
という新しい動きが出てきたそうです。
1997年、ジンバブエではジンバブエ人によるORAP(Organization of Rural Associations for Progress)、農業NGOが活動を始めました。
ORAPはただの援助はしない、自分たちで考えさせる、人々にやる気を起こさせる、という方針だそうです。
外からの援助があると、それに依存してしまう。ちょっと方法を変えてがんばれば、自分たちの力だけで十分に豊かな生活が出来るのだ、と。
その他、シエラレオネ内戦の兵士たちが始めたバイクタクシー、
セネガルの漁民が経営する生ガキ屋台など、自分たちの生活を自分たちで豊かにしていく動きが出てきました。
――ここではこれくらいしか紹介しませんが、もっと詳しくアフリカの今を知りたい方は、本を読んでみてくださいね。
ブライアンもアフリカの音楽に触れるうち、アフリカの貧しい生活に心を動かされたかもしれません。
でも何となく、ブライアンは政治的なことに興味を持って、そこにアプローチをかけようとするのではなく、
たぶん、音楽的な面からアプローチしたのではないかなって思うのです。
そこに受け継がれてきた音楽を録音したり、一緒に演奏をしようと試みてみたり。
音楽から生活の中に希望を見出していく。
そしてジャジューカが広く世界に知られるようになったように、他の多くのミュージシャンたちを見出していき、新しい音楽を創っていったかもしれません。
今回は、もしもブライアンがジャジューカ以降、やったかもしれない音楽活動について、想像を巡らせてみました。
ブライアンが見出す音楽、ジャジューカその後を聴いてみたかったです。
↓写真美術館を出たところで撮りました。
早くもクリスマスですね~