ブライアンとニコ(nico) part2

part1の続きです。

ニコの経歴を、ブライアンとのことも含めながら書きます。

ニコ(nico)、本名:クリスタ・パフゲン、1938年10月16日、ケルンにてドイツ人の両親ヴィルヘルム&マルガレーテ(グレーテ)・パフゲンのもとに産まれる。

父親は1942年にフランスの狙撃兵から銃撃を受けた。

それでも彼は生きていたが、ドイツ人将校は祖国が知的障害者に煩わされないために、とどめの銃撃を撃ち込んだ。

ニコは「自分の父親はナチに殺された」と言っていたという。

既に10代の頃から7ヶ国語を話し、モデルの仕事を始めた。

1956年のベルリンで、クリスタ(本名)は”ニコ”になった。

親友の若き写真家トビアスが、彼がパリで恋をした男、ニコ・パパタキスから”ニコ”という名前をつけたのだ。

1960年、ニコはニコ・パパタキスと出会う。

ニコは言った。「私の名前もニコなの。あなたのおかげでね」

その時から二年間、二人は一緒に暮らすことになった。

ニコ・パパタキスは当時42歳。二人の関係は恋人同士というより、兄妹のようであったと思われる。

1960年のフェリーニの映画「甘い生活」に出演

モデル業に飽き飽きしていたニコだったが、女優業にもあまり興味を持てなかった。

アーティストになりたがっていたニコに、ニコ・パパタキスは歌を歌うことを勧める。

ブライアンと一時期付き合っていたズーズー(ZOUZOU)とニコは仲間だった。

モデルから女優、歌手へという経歴については、ズーズーはニコの先駆者的なところがある。

ニコはある日、”世界一美しい男”を見つけ、その男性の子供を産むことになる。

相手はアラン・ドロン。

1962年8月9日、パリでニコはアラン・ドロンの子供Christian Aaron(クリスチャン・アーロン、愛称:アリ)を出産。Cはクリスタ、Aはアランから取っている。

その際にニコを病院に運び込んだり、(モデルの身体に傷をつけるわけにはいかないと)病院の決断(帝王切開)に怒り狂ったのは、ニコ・パパタキスだった。

アラン・ドロンは子供の認知すらせず、アリは私生児となった。

ニコは大きなショックを受け、何度も彼と連絡を取ろうと試みたが、スターを守るドロンの友人たちからはねつけられた。

後にドロンの両親がアリを養子にしたが、あくまでもドロンは認知しなかったという。
(いくら認知しなかったとはいっても、「NICO ICON」というドキュメンタリーに登場するアリはアラン・ドロンにそっくりです。)

1964年5月、パリでニコはボブ・ディランと出会う。町中で顔を合わせ、共通の友人に紹介されたのだ。

彼らはその後数週間を一緒に過ごす。

1965年3月の初めのある夜、ニコはローリング・ストーンズと出会う

彼らはオーストラリア・ツアーの成功と、二枚目のアルバム発売を祝うレコード会社が開いたパーティーのために集まっていたのだ。

ニコはまず、彼らのマネージャーであるアンドリュー・オールダムに近付いた。

アンドリューはシンガーとしてのニコに興味を持つと同時に、ブライアン・ジョーンズが彼女に熱い視線を注いでいるのに気づいた。

メンバーにガールフレンドをあてがうことも仕事だと思っていたアンドリューは、
「もう一度会って、仕事について話し合おうよ」
とニコに提案した。

彼らが再び会ったのは、1965年4月17日のことだった。

ニコは女優仲間のズーズーがブライアンと一緒に過ごしたことがあるのを知って驚いた。

――え~、「ブライアンとキース・リチャーズ part9」で、アニタとブライアンは1965年9月14日に初めて会ったのではなく、その前に会っていたと書きましたが、「NICO―伝説の歌姫」によれば、これはどうやら間違いだったようです。

女連れ(ズーズーと一緒)だったブライアンにこのとき会ったのはニコで、この後、ニコとブライアンは断続的に付き合うようになったそうです。

驚いたことに、アニタはブライアンにとって「ニコの代わり」だったのだろうということ。

言われてみれば、二人ともドイツ人ですし、雰囲気も似ています。

でも、だとしたらアニタと別れた後、ニコとまた付き合えばよかったのに、とも思いますが、ニコにとってブライアンは(男女関係がありながらも)「可愛い弟」のような存在だったそうです。

ブライアンにとって、これでは納得いかなかったのでしょうね。
ブライアンは女性との付き合いの中で、主導権を握りたがるタイプだと思うので、弟扱いされてしまってはかなわないでしょう。(アニタともよく主導権争いをしていたようですが、結果的にはアニタが主導権を握っていたようです)

ニコが語るブライアンとの関係を読むと、ブライアンが狂人のように思える部分があるのですが(ドラッグでラリってニコを殴り、傷ついた彼女を残して去っていったとか)、同時期ブライアンと付き合っていたズーズーは、
「ブライアンはニコを怖がっていた」
と言う。

「私たちがパーティーに出ていて、そこへニコがやってくるとブライアンはよくこう言っていたわ。『ああ、参ったぜ、君はちょっと姿を消した方がいいよ』って。彼女は大柄で、威圧的な女性だったわね」

ちなみに”ニコの代わりに”付き合ったとされるアニタも威圧的な女性で、二人の身長はアニタ175cm、ニコ180cm。

このアニタが”ニコの代わり”だったというのが本当ならば、ブライアンはアニタを忘れられず、アニタに似た女性を追い求め続けていたのではなく、ニコに似た女性を追い求めていたことになります。

ニコにとってブライアンは、彼のマネージャー(アンドリュー・オールダム)へと通じる存在でもあった。

同時に彼女はブライアンとの関係を、純粋な交友関係にしたいと望んでいたが、ブライアンはニコと会っている時はいつも(ドラッグで)まともに話ができないくらいフラフラだった。

ニコは、豊かな才能があるブライアンに自分の音楽を作るようにと言い続けたが、ブライアンは彼女のことを「小言女」と呼んだ。
(……このあたりの会話でも、ニコとブライアンの関係がわかるような気がします。ニコにとってブライアンが”可愛い弟”のような存在だったというのが)

また同じ頃(1965年)、ニコはパリでアンディ・ウォーホルと顔を合わせることになる。

ウォーホルはイーディ・セジウィック、ウォーホルのアシスタントのジェラード・マランガ、イーディの友人のチャック・ワイン、そしてニコの顔見知りでもあったパリのアメリカ人デニス・ディーガンと一緒だった。

ニコは親しい有名人の名をあげて(もちろんストーンズの名前も入っていた)、ウォーホルに自分を印象づけた。

――あれ? 「ブライアンとキース・リチャーズ part9」で、”ブライアンはnicoをボブ・ディランに紹介し、ボブ・ディランは彼女をアンディ・ウォーホルに紹介し、nicoはウォーホルの映画に出た、というつながりがあるようです。”と書きましたが、今回参考にしている「NICO――伝説の歌姫」によれば、ブライアンが紹介するより前に、ニコはボブ・ディランに会っているし、ウォーホルにも会っているではないですか。

ただディランがウォーホルにニコを映画に出すようにと勧めたのは本当みたいですが。

アンドリュー・オールダムが手始めに3枚のシングルを出すことを考えている、とニコに提案した。

ニコはデビュー・シングルの曲として、ボブ・ディランが彼女のことを考えながら書いた「I’ll Keep It With Mine」を考えた。

運よくディランはロンドンにいたが(ドキュメンタリー映画「DON’T LOOK BACK」の時」)、パーティーで会ったディランはドラッグでイカれていた。

ニコ曰く、
「ディランはストーンズのようになりたくて、彼らがどんな服を着ているのか、聞いてきた。彼はフォーク歌手ではなくて、ブライアン・ジョーンズやジム・モリソンになりたかったの」
乗り気ではないディランに食い下がり、ニコが歌う「I’ll Keep It With Mine」のデモが録音された。

ニコがその音のチェックもしないうちに、ディランは自分の次のシングルになるという曲を歌いだした。

彼が彼女に聴かせた曲は「ライク・ア・ローリング・ストーン」だった。

アンドリュー・オールダムはこのデモ・テープを聞いたが、
「いい曲だが、デビュー曲には弱すぎる」
と言った。そして若いカナダ人の作曲家ゴードン・ライトフットの作品「I’m Not Sayin’」をA面に、ジミー・ペイジが書いた「The Last Mile」をB面にしたシングルを作った。ジミー・ペイジはこの曲でギターも弾いている。(当時のジミーペイジは日雇い仕事をこなす21歳のセッション・ギタリストだった)

――part1で、「I’m Not Sayin’」のギターはブライアンが演奏していると書きましたが、この曲が入っているアルバムのクレジットを見ても、ブライアンの名前はありません。ジミー・ペイジの名前はあるのですが。

確かに「NICO――伝説の歌姫」には、ブライアンが演奏したと書かれているのですが。

う~ん、ブライアンのギターの音を聞きわけることができない私……、どなたかpart1に貼り付けた映像の音を聴いて、判断できる方はいらっしゃらないでしょうか……。

ニコのドキュメンタリーを観ていて、「いい曲だなあ」と思った「 I’ll be your mirror」です。↓

ルー・リードがニコのために書いた曲なのだそうです。
(あ、そういえばルー・リードってブライアンと誕生日が近いことを発見しました。ルー・リードは1942年3月2日生まれらしいです。ブライアンは1942年2月28日)

歌詞を見るととても母性的な歌だと思ったのですが、ニコは、
「あれ( I’ll be your mirror)には感情移入できないわ――注意が向いているのは美しいものばかりで醜いものがないから」
と言っています。

若い頃から業界で働き、この頃既に汚いものもたくさん見てきたのであろうニコは「美しいだけの世界なんて嘘っぽい」と思っていたのでしょうか。


あなたの鏡になるわ
自分が見えない時のために
風になる 雨や陽の光に
そしてあなたの家を照らすの
心の中に闇が下りて
あなたがひねくれてしまった時
目が見えなくなってることをわからせて
手を貸して 私にはあなたがわかるから

あああー、また書ききらなかったので、後日に続きます。

コメント

  1. tama より:

    こんばんは!るかさんのnico特集を読んで、もう一度「nico〜伝説の歌姫〜」を読み直してみました。よく考えたら、nicoは伝説と言われるロックスターのほとんどと関わってるんですよね。ディラン、ブライアン、ジミーペイジ、ジミ、ルーリード、ジムモリスン・・・と挙げたらキリがないくらい他にもまだまだ彼女に魅かれた人達がたくさんいたんですよね。そして彼女も伝説になってしまって・・・。彼女と関わった男達は、決して歌は上手くないけど、ものすごい表現力がある人が多いですよね。nicoもまた、そんな男達に負けない位、魅力的なアーティストだったんだろうなぁ。それにしても、これだけのスターと関わった中で彼女が本当に愛した男は、いったい誰だったんでしょうね。やっぱりジムモリスンなのかなぁ?

  2. るか。 より:

    tamaさん、こんばんは☆
    nicoはその時々、付き合っていた相手には愛情を持っていたと思いますが、ジム・モリソンは別格だったように思います。
    たぶんnicoは自分が育った環境もあって、実はあたたかい家庭のようなものに憧れていたのではないでしょうか。
    だから息子のアリを認知してもらえなかった傷は大きかったのではないかと。
    彼女は自由を愛しながらも、家族的な絆に憧れていて、でも全てに絶望していた。
    虚飾を嫌って、依存も期待もしたくなかった。
    それでも被害者の立場にいるなんて冗談じゃなくて、這ってでも進んでいく強さを持った女性だったのではないかなって思います。
    ホント、魅力的ですよね。。