ブライアンとキース・リチャーズ part14と15の間

part14に続けてpart15を書く前に、書きたいことがあったので、「part14と15の間」としました。
(ただでさえ長くなっているのに、「間」まであるとは!なんて思いながら書きます)

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前からチラチラと触れていた「ジミ・ヘンドリクス 鏡ばりの部屋」(チャールズ・R・クロス著、blues interactions,inc.)を読みました。

この本、とっても読みやすかったです。

年代が前後することなく整理されて書かれているので、わかりやすいのです。

この本はもちろんタイトル通り”ジミ・ヘンドリクス”について書かれているのですが、ここではブライアン、またはキースに関すること、その他気になることが書かれていた部分を取り上げてみます。

まず、これは読んで「へ~え」と思ったのですが、60年代のことを書いていると、よく登場するドラッグLSD。

LSD(リセルグ酸ジエチルアミド)は、1938年、麦角菌を研究中のアルバート・ホフマン博士によって発見されたものだそうです。

博士はそれに幻覚剤の効果があることに気付き、1940年代には、アルコール依存症や統合失調症まで、ありとあらゆるものに効く薬としてサンド製薬会社から売り出された。

1965年8月には公式な販売は禁止されたそうですが、アメリカでは1967年に違法ドラッグとなったので、ジミが初めてLSDを体験した時(1966年)には非合法ではなかったそうです。

これと同じようなことを、2003年のインタビューでミックが話しています。
当時(60年代)は誰も、麻薬中毒のことを大して知らなかった。LSDとか、あのへんはどれもまだよく知られていなかったしね。誰も害を認識していなかったんだ。コカインだって体にいいと思われていたんだから

よくわからなかっただけならまだしも、”体にいいと思われていた”っていうのは、意外というか、驚いてしまいます。

とすれば、ブライアンもドラッグの怖さを、当時はよくわかっていなかったのではないでしょうか。

ブライアンは元々身体が弱くて、よく病院通いもしていました。

そういう人が、自ら進んで”身体に悪いとされていること”をしないと思うのです。
(アルコールはかなり飲んでいたようですが)

たぶんブライアンは少しずつ、ドラッグが身体に与える悪い影響に気づいていったのでしょう。

友達のロニ・マネーに、「きちんとした生活をしたいから、家においてくれ。家賃は払うから」と頼んだことがあるという話がありますし。

ロニとブライアンは、男女関係ではない友達同士で、ブライアンは彼女のことをとっても信頼していて大好きだったと思われます。

ブライアンを下宿させることはしなかったみたいですが、何度かボロボロになったブライアンを泊めてあげたことはあったらしいです。

確か麻薬中毒の怖さを教えたのもロニだったかと思います。

ロニはブライアンとアニタが付き合い始めた時にも、アニタのハイテンションぶりにブライアンが消耗しているのを心配していたようです。

モロッコで一人置き去りにされた時にも、ロニに電話をかけて泣きついていたようですし。
(ロニは、「しっかりするように」とブライアンを説得したようです)

彼女は、バンドリーダーの夫を持つ踊り子で、ブライアンと一緒に写っている写真を見ましたが、小柄な可愛らしい人です。

今回読んだ本の中にも、ロニの名前がでてきました。

この本を読んでいて、「やっぱり」と思ったこと。

ジミの演奏を聞いて衝撃を受けた(当時キースの恋人だった)リンダ・キースがジミを紹介したけれど、興味を示してくれなかったプロデューサーというのは、ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・オールダムでした。

ただアンドリューはジミの演奏に興味がなかったというよりも、
「自分がマネージしているバンドのギタリスト(キース)の恋人のリンダが、ジミと親しそうだったのが心配だった」
のだと言っています。

またジミが問題児だというのもわかったから、ストーンズで充分問題を抱えていたアンドリューは、これ以上面倒を背負いたくなかったのだ、と。

アンドリュー曰く、
「キースは自分のガールフレンドに関わってくる男を本当に殺してしまいそうな男だったんだ」。

リンダは、外見を気にするアンドリューだから、ジミのことを気に入らなかったのだろうと言っているのですが。

そしてこの本によれば、ジミと仲良くなり、自分と別れたリンダに腹をたてたキースが、腹いせにリンダの両親に電話をして、

「ふたりの上品な娘はニューヨークで”黒人の麻薬中毒者”とかかわっている」
と告げ口をし、取り乱したリンダの父親が、娘を迎えにニューヨークに向かったのだという。

ん~、この展開、part10で書いたのと違いますね。

part10で書いたこと↓
「8月にロンドンに帰ったキースは、すぐにリンダの両親に電話をして、彼女のすさんだ生活を伝えた。
リンダの両親はショックを受け、父親は後見人として娘をロンドンに連れ戻すべく、ニューヨークに向かった。
8月24日、リンダはハムステッドの両親の元に戻る。
キースとリンダは話し合ったが、話が通じなくなっていた二人はそれで終わってしまった。
リンダは言う。
「別れた後で、キースから何度か伝言があったわ。『リンダに、失せろ!って伝えてくれ』とかなんとか。何年も続けてね」」

この時書いた流れだと、キースがドラッグ漬けになっているリンダを心配して両親に知らせたのかと思っていましたが、今回読んだ本の通りだと、嫉妬に狂ったキースが、リンダの両親に告げ口をして、ジミとリンダを引き離したというふうにとれます。

別にジミとリンダは付き合っていたわけではないようですが。

キースは実は嫉妬深い人なのでしょうか。

別れた後何年も伝言があったということから考えても、かなり引きずるタイプなのかもしれません。
(キース、ブライアンのこと、嫉妬深いとか言えないじゃん…)

その他、ブライアンに関係ある箇所を抜き出してみます。

ジミが初めてイギリスへ来たとき、空港からの道すがら、フルハムに住むズート(有名なバンドリーダー)と、その妻ロニー・マネーの家に立ち寄った。(この本では、ロニではなく”ロニー”となっています)

上の階に住んでいたのは、後にジミと長く付き合うことになる美容師のキャシー・エッチンガムで、彼女はブライアンやザ・フーのキース・ムーンとも付き合ったことがあった。

ジミとブライアンは、既にニューヨークで会っていた。

ブライアンはイギリスに渡ったジミの一番の支援者となって、他のスターたちを連れて彼の演奏を観に来るようになっていた。

ピーター・タウンゼントもすぐにジミのファンになった。

バッグ・オ・ネールズでショーをした時、客席にはエリック・クラプトン、ピート・タウンゼント、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ミック・ジャガー、ブライアン・ジョーンズ、ブライアン・エプスタイン(ビートルズのマネージャー)、ジョン・エントウィッスル、ドノヴァン、ジョージ・フェイム、デニー・レイン、テリー・リード、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、ルル、ホリーズ、スモール・フェイセズ、アニマルズ、ロジャー・メイヤーがいた。

みんなが嫌っていた「ワイルド・シング」は、ジミの演奏で一番美しい曲になった。

トイレに行って戻ってきたリードに、ブライアン・ジョーンズは言った。
「店の中は水びたしだぜ」

どういうことかとリードが聞くと、ブライアンは、
「ギタリストたちの涙でびしょぬれだよ」
と答えた。

デビューアルバム「Are You Experienced?」の発売前のアセテート盤をもらうと、ジミはブライアンに電話をし「聴きにこいよ」と誘った。

ブライアンは友人のスタニスラス・デローラを連れてきて、三人は一睡もしないで、アセテート盤を聴いた。

ジミは誇らしげで、ブライアンも感心し、「将来、ジミをプロデュースしたい」と申し出た。

ジミは「検討しておくよ」と答えた。

――ブライアンにはプロデューサーとしての才能があったのではないか、でもブライアン自身はそのことに気づいていなかったのではないか、という話を読んだことがありますが、そんなこともなかったのではないかと、このようなエピソードを読むと思います。

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスがモンタレー・ポップ・フェスティバルに参加することになったので、エクスペリエンスのメンバーとブライアン、エリック・バードンはヒースロー空港から旅立った。

モンタレーでは、ジミは軍服を着て”アイム・ア・ヴァージン”と書かれたバッジをつけ、ブライアンは魔法使いのようなコートを着ていた。

エリック・バードンは、「二人はこれ以上ないくらい奇妙な格好をしていた」と言う。

「ブライアンは毛皮を着た金持ち婆さんみたいだったし、ジミはただ突飛だった」。

ジミは舞台裏でジャム・セッションを行い、ジャニス・ジョプリン、ママ・キャス、ロジャー・ダルトリー、エリック・バードン、ブライアンらと「サージェント・ペパーズ」を大音量で歌った。

エクスペリエンスの出番がくるとブライアンがステージに上がり、
「僕の親友、みんなと同郷の男を紹介しよう。すばらしいパフォーマーで、僕が知っている限りもっとも熱いギタリストだ。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」
と紹介した。

演奏後、アンディ・ウォーホルとニコが最初にジミを舞台裏で迎えた。

後にニコは「ジミのモンタレーのパフォーマンスは見たこともないほど”セクシーだった”」と言っている。

ジミはニューヨークのホテル・ナヴァロにチェックインした翌日、ブライアンの死の知らせを聞いた。

7月10日、ジミはビリー・コックスとミッチ・ミッチェルと『トゥナイト・ショー』に出演した。

ジミは始終忍び笑いをし、ガムを噛んでいたため、なにを言っているのかわからなかった。

バンドは「ラヴァー・マン(lover man)」を演奏し、ジミはこれをブライアンに捧げた。
残念ながら、ジミのアンプが壊れ、生番組は失敗に終わった。

――この本を読んで、あらためて気づいたこと。

私は何度かブライアンとジミは似ている、と書いてきました。

確かに彼らには似ている部分が多いと思いますが、決定的に違うのは、それぞれの”育ち”です。

ブライアンは、なんだかんだ言っても「お坊ちゃん育ち」だったと思います。

型にはまらないブライアンは、両親の手に余るところがあったのかもしれませんが、実家にいる時、食べるものにも困るような思いをしたことはないでしょう。

ジミの場合は、幼い頃から兄弟たちと引き離され、母親とは一緒に過ごせず、そしてその母親は早く(ジミが15歳のとき)に亡くなっています。

ジミは生涯、母親ルシールの影を引きずっていたように思います。

男性にとって母親って、特別な存在なのですね。

ブライアンも両親と分かり合えないということを悩んでいたので、そういう部分ではジミと共通しているかもしれません。

でも人種差別を受けながら貧困に喘ぎ、不安定な家庭で育ってきたジミとブライアンの育ちには、明らかに大きな違いがあります。

ブライアンの場合、その”育ちのよさ”がストーンズから浮いていたようにも思えます。

ここでまた2003年のミックのインタビューでの発言。↓
「奴(ブライアン)は本物のミドル・クラスの人間だった――チェルトナムっていう、イギリスで最もミドル・クラス的な街の一つの出身だったからね。実際チェルトナムってのは、イギリスで一番家柄のいい連中が集まっている地域の中でも、これまた一番家柄のいい連中が集まっている街の一つなんだ。だから、奴のものの見方や育ちも上流階級風で、そこらへんは俺よりもひどかったよ」

育ちの違いがあったといっても、ブライアンとジミは気が合う友達だったのだと思いますが。

それと、以前、ノエル・レディングの本のブログを書いて、その時にはノエルが2003年5月に57歳の若さで急死した死因がわからなかったのですが、この本には「肝疾患」と書かれていました。

やはりアルコールの影響だったのでしょうか。

ブライアンと同じ27歳の若さで突然亡くなってしまったジミ。

その死後、何十年も彼の遺産について争われているというのを読むと、なんだか哀しくなってきます。

ジミは親族をお金のことで争わせるために音楽をやっていたわけではないでしょうに。

この本は確か映画化されるんですよね??

どういう映画になるのか楽しみです。

というところで、「間」の話は以上。

part15に続きます。

コメント

  1. Flaaffy より:

    私の母はアメリカ生まれで学生のときにMonterey Pop Festivalを観ることができました。
    とても多くのバンドが出たので 何が演奏されたかはあまり記憶にないそうですが
    Brian Jonesのことはとても印象に残ってるそうです。
    母は彼がFestivalに出るとは知らなかったので とても驚いたし
    本当にBrian Jones本人なのか疑問に思いながら見ていたそうです。
    P.S.日本語に間違いがあったらごめんなさい。

  2. るか。 より:

    Flaaffyさん、はじめまして。
    コメントありがとうございます。
    日本語、カンペキですよ。
    私より上手なくらいです。
    ところで、
    お母様、あの時のブライアンを見られたなんて、うらやましいです。
    映像はyoububeで見られると思いますが、観衆がどよめいてますよね。
    ブライアンが出てきたのはサプライズという感じだったのでしょう。
    タイムマシンがあったら、あの時のあの会場に行ってみたいです。
    ブライアンの紹介で出てきたジミの演奏も生で聴いてみたかったです。