今年の心がけ(の1つ)として「寝不足解消」と掲げてみたのですが、早くも寝不足気味の日々。
写真は週末に見上げた空の風景です。
正に「都会の月」。
もうひとつ、都会の風景。
まるで「ALWAYS 三丁目の夕日」。
本題に入る前に、いきなり余談。
最近、初めて知ったこと。
「CHICAGO Chess SESSIONS」で録音された「Stewed and Keefed」(別名:Brian’s Blues)、
曲名にブライアンの名前が入っているので、ブライアンが中心になって録音したのかと思っていたら、レコーディング・セッションによると、「ブライアンは体調がすぐれず、セッションには参加できなかった」とある。
そこでこの曲の別名が、ブライアン「ゆううつ」となったのだそうだ。
(というか、今頃気付いたのですが、「Stewed and Keefed」というのは、スチュとキース、という意味?)
さて、part7の続きです。
「キース・リチャーズ オレはここにいる」(スタンリー・ブース著・音楽之友社)より、キースがブライアンについて語っている部分を※引用※
「ブライアンは、変な男だった。周りの連中を対立させようとする。被害妄想みたいなところもあった。ミックとブライアンが、おれに歯向かうなんていう状態も、時間がある時なら、どうってことないけれどね。対応できるから。だが、ツアーに出て、ひとつのギグが終われば、次のステージの準備をする、そういう忙しい時には、まいってしまう。一年の340日くらい働いて、疲労困憊の日々さ。それが4、5年続いたんだよ」
「ミックとおれが作曲を始めたころから、人間関係がおかしくなった。自分までも、ブライアンと同じように振舞っているのに、気付いた。おれとミックは、ブライアンに冷たくした。懸命に仕事をして、それをやり遂げようとしている時に、ブライアンの偏執狂じみた行動には、我慢ならない。おれたちも意地悪くなってしまう。ブライアン自身のやり方に対処するためにね。スチュは、ブライアンのひねくれ根性を嫌っていた。よく知れば知るほど、嫌いになった。スチュも語っていたように、ブライアンは、非常に扱いにくい人間だよ。彼が仕事に関われば関わるほど、問題はこじれた……。いろいろもめて、自分のやり方が通らないと、最後まで我を張るんだ。中西部に行った時など、三週間、ひとりのギタリストで演奏しなければならなかった。ブライアンが怒って、ステージに出ないって言うんで、ギターはおれひとりでやったんだよ。その時、ローリング・ストーンズの本質が見えたような気がした。ひとつのギターじゃ、満足なストーンズのサウンドは出せないんだ」
スタンリー・ブースはキースと親交があり、他にもストーンズ本を書いているので、信用できると思うのですが、ところどころ疑問に思ってしまう部分もあります。
例えば、前に紹介しましたが、
アルバム「山羊の頭のスープ」のジャケットについて、
「アルバム・ジャケットには山羊を生贄にして生き延びたストーンズのイメージが象徴的に描かれていた。
かつて、ブライアンはモロッコで食べた山羊に自分を投影し、ペット用の山羊も飼っていた。」
と、まるで<ブライアン=山羊>で、ストーンズはそれを犠牲にして生き延びたというイメージのアルバム・ジャケットであるというようなことを書いていたり。
また、「悪魔と踊れ」の中では、アニタとキースとの間に産まれた子供、マーロンについて、
「アニタはブライアンの子かもしれない赤ん坊を大げさに高々と掲げた。」
と書いていたり。
これを読んだときには「アニタが産んだのはブライアンの子供!?」と、ギョッとしましたが、マーロンの(小さい頃の)写真を見たら、キースにそっくりだったので、ホッとしました。
この本の中でも”ブライアンと、当時付き合っていたリンダ・ローレンスの間には1964年に子供が産まれた。ブライアンにとっては3人目の私生児だった。ブライアンはリンダに結婚を迫っていたが、うまくいかなかった”というようなことが書かれているのですが……、うーん、これってどうなのでしょうか。
リンダの話だと、別れを切り出したのはブライアンの方だったことになっているのですが。
リンダの優しい嘘だったのでしょうか。
まあ、私が読んでいるのは日本語に訳されたものなので、原文との微妙な違いなどがあるのかもしれませんが。
とはいえ、このキースの言葉については、実際にキースが語ったのだというふうに思えます。
忙しくゆとりがない、しかもまとまっていなくてはならない時に、輪を乱すような言動をとっていたというブライアンに冷たくあたった、というのは仕方がなかったのかもしれません。
でも、ブライアンは根っからのアーティストですから……
仕事にこだわればこだわるほど、譲れないことが出てきて、結果、我を張ることになってしまったというのも、わからないでもないです。
ブライアンのために一言言えるとすれば、ブライアンが我を張ったのがどんなことについてだったのかな、ということ。
誰が聞いても”どうでもいいこと”で我を張っていたのなら、冷たくあしらわれたのは当然の成り行きですが、もしかしたら、ブライアンにとっては絶対に譲れない事柄だったのかもしれません。
1965年5月初め(4月だという説も)、フロリダ(ロンドンだという説も)のホテルの一室で目を覚ましたキースは、夢の中で思いついたカッコいいリフをカセットテープに録音し、その後また眠ってしまった。
目覚めてテープを再生してみると『サティスファクション』のリフが30秒、キースの鼾が60秒入っていた。
翌日、ストーンズはチェス・スタジオでのレコーディングのため、シカゴに飛んだが、キースのリフを納得のいく曲に仕上げることはできなかった。
5月12、13日、RCAスタジオでのレコーディングのため、ロサンゼルスに向かった。
キースは眠らないでいるため、覚せい剤に加えてコカインもやるようになっていた。
14時間ぶっ続けのレコーディングで『サティスファクション』を含め新曲を6曲吹き込んだ。
『サティスファクション』のシングル発売にキースは反対した。
「あれは山や丘みたいに自然そのままって感じの曲で、ファズボックスで濁らせたギターの音なんかは嘘くさい感じがしたんだ。だから、あれをシングルにしようなんて言われると、おれは初めて怒り狂って『絶対に駄目だ!って叫んだんだ』」
しかし投票により、キースとミック以外の意見が多数となり、『サティスファクション』はアメリカで7枚目のシングルとしてリリースされた。
7月10日、『サティスファクション』が、彼らにとって初めての全米一位となった頃、キースとリンダは南フランスに休暇旅行に出かけていた。
その夏には「The Last Time」がオーストラリア、ドイツ、マレーシア、ニュージーランド、デンマーク、フランス、イタリア、トルコ、ギリシャ、スペイン、ユーゴスラヴィア、香港で一位になった。
8月20日、「サティスファクション」が全世界で発売された。
キースとミックによる3曲と、ナンカー・フェルジの4曲が入ったアルバム「Out Of Our Heads」がイギリスで二位、アメリカでは一位になった。
キースとミックは次々に曲を作った。
シングルは1000万枚、アルバムは500万枚が売れ、コンサート・ツアーに一回出れば、500万ドル以上の金が入った。
1963年から1965年まで、ストーンズは何百ドルも稼ぎ出したが、バンドの懐にはほとんど入ってこなかった。
1965年、ストーンズはマネージャーをエリック・イーストンからアレン・クラインに代えた。
「エリック・イーストンは疲れすぎていた。何の仕事もしてもらえなかった。彼は若くもなかったし、2回の全米ツアーをこなした大仕事の後では、もう3回目に出かける元気はなかった。実際の話、彼は病気だったんだ」
アメリカ人のアレン・クラインを連れてきたのは、アンドリュー・オールダムだった。
イギリスのロック・グループを買い漁っては、莫大な金を生み出していた、ギャング然とした容貌の男だ。
初めての会合で、クラインから「レコードを作っているのは誰だ」と聞かれたアンドリューは、キースを指差した。
クラインはキースを、ボブ・ディランやポール・サイモンに匹敵するソング・ライターだと認めた。
ミックに対しては「”女のように”扱う必要あり」と、特に注意を払っていた。
クラインとの会合に、弁護士を立てようと主張するビルに、キースは声を荒げた。
「金の亡者になるのはよせ。誰かを信用しなくちゃならないだろうが」
キースはクラインを気に入った。
「クラインは若くて、次に何が起こるか読む力があった。おれたちは今度ビジネス上のマネージャーを選ぶときにはアメリカ人にしようと決めていた」
クラインは彼らにとっておじさんのように守ってくれる庇護者であり、英雄だった。
ストーンズは音楽業界最大のやり手にはめられていたとも知らずに、1966年に突入していった。
確かにクラインは、その後三年間、ストーンズに莫大な額の金をもたらしたが、しかし彼の最大の目的は、彼自身の富を築くことだった。
クラインはストーンズとの契約が切れるまでに、潤沢な資金源である彼らの作品の大半――1963年から1969年までの作品全て――の著作権を手に入れ、ストーンズは1500万ドル近い金を失うことになる。
契約書によれば、ストーンズが稼いだ金は全てクラインの口座に入り、クラインがその気にならなければ、何年間も1セントたりと彼らに渡さなくてもいいことになっていた。
そして以後5年間、クラインは”その気”にならなかったのだ。
その代わりにクラインはストーンズの面々に金を貸し、ストーンズはますますクラインに依存するしかなくなった。
――クラインの「ミックのことは”女のように”扱うように」というのは、納得というか、クラインって人は、確かに人をうまく扱う能力に長けていたのだろうなと思えます。
ビルが主張したとおり、弁護士に立ち会ってもらえば、大損するような破目にはならなかったかもしれませんが、キースによれば、ストーンズを世界現象にしたのも彼(クライン)だったのだそうです。
クラインとのいざこざの際に、先頭に立って舵をとったのはミックだったと、ミックのブログで書きましたが、現実的でしっかり者のミックがいてストーンズは救われましたね。
1965年9月14日、ミュンヘンでのコンサートのバックステージで、ブライアンはアニタ・パレンバーグに出会います。
バンド内で力を失っていったブライアンの前に現れたアニタ。
彼女と付き合うことにより、再びブライアンはストーンズ内での力を取り戻す力を得たと思いきや……。
後日に続きます。
コメント
るかさんこんばんは^^:アニタと言えば・・・パティボイドのサイトに写真が載ってましたよ^^。アドレスは *^^*http//www.Pattieboyd.co.uk/です。Patti もアニタと似た人生を生きてきた人ですよね><;すごいな・・・。二人の男性に愛される気持ち、うー><;分からないけどなんとも羨ましいです^^;
うさこさん、こんばんは☆
パティのサイト、見ました!
うわ~、またまた貴重な写真ですね!
マリアンヌと一緒の写真ですよね?
マリアンヌはそれほど変わっていないけれど、アニタ……、写真写りの問題もあるのか、名前が出ていなければわからないような^^;
私も映像探してみたんですー
更新したブログに映像はめこんでみましたが、
http://www.youtube.com/watch?v=XLYKlan6KYw
です。
マリアンヌと一緒にコント?してるみたいです。
2人はその後も仲がいいんですね。
それと、前にご紹介頂いたモロッコの映像に刺激を受けて、いろいろ読んだり観たりし始めてます。
ホント、興味深い映像を紹介して頂いて、ありがとうございます!