ブライアンとミック・ジャガー part11

part10の続きです。

ブライアンが亡くなった後のミックの奮闘振りについて、「ミック・ジャガーの真実」(クリストファー・アンダーセン著、福武書店)を参考に、なるべく簡潔に書きます。(”簡潔に”書けるだろうか……)

もちろん、ブライアンのことにも触れます。

書いていて、ストーンズの根底にはブライアンはずっと生きているって、あらためて感じました。

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ハイド・パークでのコンサート後、ミックとマリアンヌは映画の撮影のため、ブライアンの葬儀にも欠席し、オーストラリアに旅立った。

マリアンヌは睡眠薬を多量服用したが、奇跡的に助かった。(このことはマリアンヌのブログで触れたので、ここでは詳しく書きません)

1969年7月20日、アメリカの宇宙飛行士が月に着陸した。ミックはこの感動的瞬間をマリアンヌとではなく、マーシャ・ハントと分かち合いたかった。彼はすわって、彼女に手紙をしたためた。日付けは「日曜、月」とだけ書いた。ほとんど毎日のようにかけるマーシャへの電話の中で、ミックは彼女についての曲を書いていると語った。<ブラウン・シュガー>と名づけるつもりでいた。(彼は彼女にはタイトルの意味全部を知らせなかった。<ブラウン・シュガーことブラック・プッシー>が正式なタイトルだった)。

その夏、アニタは元気な男の子を産んだ。その子はキースの好きなハリウッドの反逆児にちなんで、マーロン・リチャーズと名づけられ、両親が毎晩となりの部屋でヘロインを打っているとも知らず、子供部屋ですやすやと眠っていた。

チェイニー・ウォークに戻ると、ミックとマリアンヌは中断していた仕事を再開した。ミックはストーンズの財政をアレン・クラインから取り戻す秘密の計画に集中した。

ミックはプリンス・ルパート・ローウェンスタインにミック個人の財政管理だけでなく、クラインを厄介払いする方法を編み出したらすぐに、ストーンズのビジネス・マネージャーにもなってほしいと話した。同時にケンジントンのローウェンスタイン邸で私的な会合を持ち、プリンス・ルパートはミックに長期計画の唯一の解決策はストーンズが英国を離れることだと語った――恒久的に国税を逃れるには。

一方でミックは女性との関係を楽しんでいて、相手には不自由していなかった。

かわいい10代の少女たちだけではなく、ミックは友人の、特に他のロック・スターの女と寝るのが好きだった。

キースの恋人だったアニタをはじめ、ブライアンの恋人だったスキ、トッド・ラングレンの恋人だったべべ……

クリストファー・ギッブスによると、ミックと食事をしていると、彼と寝た女たちがたえずテーブルにやってきたが、「彼はまったくだれだか覚えていなかった」そうだ。

1969年12月6日、カリフォルニア州オルタモントでのフリーコンサートは、「オルタモントの悲劇」と言われるコンサートになった。

1970年1月、ミックはマーシャ・ハントに子供を作ろうと持ちかけた。

7週間後、マーシャは妊娠した。出産予定は11月だった。

その頃、マリアンヌはコカインとヘロインを交互にやっていて錯乱するようになってきていた。
春も半ばになる頃には、ヘロインに溺れ、身なりにも構わなくなり、道で倒れることも、ディナー・パーティーで皿に頭を突っ込むこともあった。

それでもミックはマリアンヌを手放そうとはしなかったが、マリアンヌはついに息子のニコラスとペルシャ絨毯を抱えて、ミックの元を去った。

7月、映画「太陽の果てに青春を」の出来上がりを観て、ミックは泣いた。ミックの演技はわざとらしく、ミックの演じたネッド・ケリーは弱々しく印象も薄く本物のネッド・ケリーとはかけ離れている、と酷評された。

驚くべきことに、こんなに騒動の中でも、ミックはストーンズの舵をしっかり握っていたのだ。7月30日にストーンズはアレン・クラインを正式に切った。翌日、デッカとの協定も終わったことを宣言し、彼らとのビジネスを求めて殺到した2ダースものレコード会社の中から自由に選べることになった。

ミックは弁護士に、アレン・クラインに対して2900万ドルの訴訟を起こすよう指示した。

クラインはストーンズ結成時から1970年までのマスターテープと著作権を握っていた。

そして後年ストーンズが録音した曲も1970年以前に書かれたものではないと証明することはできないので、クラインには際限ない権利が付与されていた。

ミックはプリンス・ルパートのアドバイスを受け入れ、200万ドルで調停に応じた。

半分はソング・ライティング・チームのミック&キースが受け取り、残りを4人とブライアンの遺族で等分することになった。(ミック・テイラーは賃金契約だったので分配金はなかった。ビルとチャーリーには5万ドルが上積みされた)

新しい契約の交渉では、ふたたびミックが中心的役割をはたすことになった。チーク張りの会議室で行われる、お固い会社の重役たちと顔を突きあわせての会合では、キース・リチャーズ、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツはやる気のないスフィンクスのような態度をとった。ミックは同席するたぬきたちに負けないくらい抜け目なく、聡明で、几帳面だった。
「おれはいつもこんな言われ方をした。”ミックは計算高く、キースは情熱的だ”ってね。でも、おれはものごとをちゃんとするのに情熱を傾けているんだ。もしおれが細かいことにこだわらなくなったら、組織が雇ったいい加減なやつらが勝手放題するだけさ」とミックは語っている。
ミックがストーンズのビジネス活動全体の管理を引き受ける以外になかった。「マリアンヌとキースとアニタがヘロインに溺れていたことは本当にミックを脅かし、彼を変えた」ヴィクター・ボックリスはそう観察している。「ミックがコントロールする以外なかったんだ。ストーンズが重大な岐路に差しかかっているとき、いちばんの友人たちはまったく頼りにならない。ミックが決断を下さないで、だれがするんだ?」

ミックは新しいレーベルとして一番金を出す、一流の雰囲気の会社を探し、アトランティックに移籍することにした。

デッカのサー・エドワード・ルイスが、移籍の前にもう一曲シングルを供給する義務があると言ってきたので、ゲイ・セクシャルのあからさまな讃歌、猥褻な歌詞を堂々と歌う「コックサッカー・ブルース」を録音した。ルイスはこの曲のリリースを断念した。

9月23日、パリでのコンサート後のパーティーにて、ドナルド・キャンベルの紹介で、ミックはビアンカと出会う。

ミックの新しい恋人となったビアンカは、アニタと対立することになる。

アニタは黒魔術を使い、ビアンカを撃退しようとした。

表には出さなかったが、キースもビアンカが大嫌いだった。

ミックはビアンカに「(今やストーンズの一員である)アニタとうまくやるように」と言った。

1970年11月3日、マーシャ・ハントが女の赤ちゃんを産んだ。ミッドナイト・ドリームという名前にしろというミックを無視して、ハントは娘に”カリス”という名前をつけた。

ビアンカはマーシャ・ハントがミックの子供を産んだことを知らされ、ショックを受けた。

子供の誕生後、ミックは数回母娘を訪ねてきたが、マーシャは子供に対する愛情に欠けているとミックを責めた。

「おまえなんか愛してねえよ。愛されてるなんてとぼけたことでも考えてたのかよ」とミックは怒鳴り返した。

「おれの子供だ。いつでもおまえから取り上げられるんだ」

「やってみなさいよ。脳みそを吹っ飛ばしてやるわ」
ミックはドアをたたきつけて出て行った。

1971年3月4日、ストーンズがフランスに移住することが発表された。

英国の97%もの税金から逃れるためだった。

メイデンヘッズ・スキンドレス・ホテルで開かれた豪華なお別れパーティーの席で、ホテル側がミックと騒々しい客たちに出て行ってくれと要請すると、ミックは逆上し、ジョン・レノンとエリック・クラプトンが止めたにも関わらず、狂ったような叫び声を上げ、椅子を振り上げて一枚ガラスの窓にたたきつけた。

3月の末に、公約通り、ストーンズはフランスに脱出した。

フランスに到着して48時間しないうちに、ストーンズとアーティガンのアトランティック・レコードの持ち株会社、キニー・サーヴィスとの協定が発効した。4年間で500万ドルの契約だった。ストーンズはローリング・ストーンズの新レーベルで六枚のアルバムをアトランティック配給で制作することに同意した。

プリンス・ルパートや会計士の一団でもとまどうストーンズ帝国の日常業務をミックがひとりでこなしているのは明らかだった。「ミックはすべてを管理していた」チャーチル(チェスとローリング・ストーンズ・レコードの駐ロンドン・マネージャー)は言う。「彼はビジネス面に信じがたいほど精通していた。彼はみんなを怠けさせまいとして、よくびっくりするようなことを言い出したものだった。いつ電話で呼び出されて”今週のスウェーデンでの売上げはどうだ”ときかれるかわからなかった。銀行との連絡業務も一手に引き受けていたよ」
ミックの決定をしりぞけられるのはひとりだけだった。「ミックは実行に移す前に、何でもキースに伺いをたてた」長い間仕事仲間だったサンディ・リーバーソンは言う。「キースがノーと言えば、ミックも折れた」

1971年5月13日、ミックはサントロペでビアンカと結婚式をあげた。ビアンカは妊娠4ヶ月だった。

式に招待されたのは、ストーンズのメンバーではキースだけだった。

ビル・ワイマンは、
「おれたちはキースと扱いが全然違うことがわかってショックを受けたよ。残りのメンバーもその女たちも結婚式には招待されてないんだぜ。サントロペの披露宴だけ、前日に電話一本で呼ばれてさ」
と言った。

1971年10月21日、ビアンカはパリのベルヴェデール・ナーシング・ホームで6ポンドの女児を出産した。その子は”ジェイド”と名づけられた。

1972年3月、ローリング・ストーンズはアレン・クラインに対する総額2900万ドルの訴訟に正式にけりをつけた。その結果、1970年以前の曲の支配権はクラインが所有するが、彼のアブコ社はストーンズの代理権を手放すことが明らかになった。
そのころまでにジャガーは気づいていた――彼がストーンズの財政の立て直し役を続けるとしたら、今度のツアーで最大の収益を上げなければならない。そのためには小規模のコンサートという考えを放棄して大都会の主要アリーナだけに絞る必要がある。

1972年のツアーでは、ミックは暗殺されることを恐れ、飛行機の離着陸にも怯えていた。

ストーンズの巡業生活は狂気のさたで、その大部分は未公開のドキュメンタリー映画「コックサッカー・ブルース」におさめられている。

記録的な全米ツアーを終えた9月、ロンドンに戻ったミックとビアンカはコートダジュールの暮らしにあきあきしたと宣言したが、税金を逃れるために家を転々とする暮らし方は変わらなかった。

ストーンズは難関をいくつも抱えていた。日本の役人は1966年のドラッグ所持を理由にミックの入国を拒否していた。

つまり以前から計画していた東南アジアツアーから日本をはずさなくてはいけなかった。

またFBIは彼らに最も関心を示し、1969年以来、彼らの殆どのコンサート会場にはFBI要員が紛れ込み、1970年の初期にはストーンズの事務所にまでスパイを送り込むようになった。

1973年6月16日、わずかな生活費をせがむのに疲れたマーシャ・ハントはミックを告訴した。
マーシャはミックの家庭の平和を壊す財産目当ての悪女にまつりあげられた。

カリスを抱いて屋根から飛び降りるしかないと彼女が思いつめた矢先、ミックの弁護士が和解策を出してきた。

カリスの乳母に週9ポンドの支払、カリスが学校を卒業したら1万ポンド(約25000ドル)の信託財産を設定する。交換条件としてマーシャは、父親はミックではないと記した書類にサインさせられた。

8月、アルバム「山羊の頭のスープ」(Goats Head Soup)をリリース。

アルバム・ジャケットには山羊を生贄にして生き延びたストーンズのイメージが象徴的に描かれていた。

かつて、ブライアンはモロッコで食べた山羊に自分を投影し、ペット用の山羊も飼っていた。

このアルバムの中でヒットしたのは「悲しみのアンジー」1曲だけだった。

この曲のモデルはデヴィッド・ボウイの妻だという噂が飛び交ったが、本当のモデルはデヴィット自身だった。

デヴィッド・ボウイはミックと関係があったと言われている。

――ここでちょっと余談ですが、初期のデヴィッド・ボウイって、ブライアンに似ていません?

この写真なんて、見かけたとき、「ブライアン?」と思ってしまいました。

デヴィッド・ボウイの本名は、偶然にも、デヴィッド・”ジョーンズ”ということですし。

ロッカーのリック・デリンジャーのもと妻で1970年代のなかばからジャガーの親友だったリズ・デリンジャーは、ジャガーにはひどく女っぽい一面があったと言う。「ミックは女の仲間になれる男なの。おしゃべりで意地悪で、噂好きで。女の井戸端会議ができる人なのよ。さあみんな、ぶっちゃけた話をしようぜ! そんな感じ、わかるでしょ」。だが彼女はこうつけ加えた。「でもミックは変人じゃないわ。一緒にいると、こいつ、けったいだなんて思わないもの。彼はれっきとした男よ」

更にリズは「ミックはビアンカに惚れきっていたわ。彼はビアンカを愛しているのに彼女は彼を愛していない、私たちはそう思ってたわ」という。

ミックと関係のあったべべ・ビューエルも「彼は口で言うよりもっと彼女を愛してたわ。結婚についてはごく保守的なイギリス人になっちゃうの。自分は外で好きなことをやってるのに、奥さんには家で子供の世話をさせたがるのよ」と同意した。

音楽ばかりをやって人生を無駄にしているとミックを非難したビアンカに一矢むくいようとして書いたのが、「イッツ・オンリー・ロックンロール」である。”たかがロックンロールさ だけどおれはこいつが好きなんだ”

プロデューサーのジミー・ミラーがほかのプロジェクトに移っていたため、ミックとキースは自らを”グリマー・ツインズ”として2人でプロデュースをすることにした。

31歳になったミックは、長年の奔放な暮らしのツケがきて、年より10歳は老けて見えるとみんなが感じていた。

ロンドンのサヴォイ・ホテルで弁護士と話していたミックは、アレン・クラインが入ってきた途端、
「80万ドル返せ!」
と叫び、廊下に逃げ出した彼を追い掛け回した。

1974年12月12日、アルバム「ブラック・アンド・ブルー」の制作に取り掛かる1日前、ミック・テイラーがストーンズを抜けると発表した。

彼がクリエイティブな面で不満を抱いていたのは周知の事実だったが、脱退の理由は「生き残るため」という方が近い。

タバコも酒もやらないベジタリアンだったミック・テイラーは、ストーンズに入ってからコカインのやりすぎで横隔膜に穴が開き、プラスチックで修繕する手術をするはめになり、このままグループにいたら、この泥沼から抜け出せないと感じたのだ。

1975年4月、ロン・ウッドがストーンズのツアーに参加すると正式に発表された。

1976年2月、不安定な結婚生活とヨーロッパ・ツアーを計画するプレッシャーに悩まされていたミックは、ドラッグのやりすぎでニューヨークのレノックス・ヒル病院に午前2時に運び込まれたが、翌日、新聞が聞きつけたと知ると、ベッドから起き上がって病院から出た。
ミックの数多い愛人の中に、テキサス出身の長身のブロンドのモデル、ジェリー・ホールがいた。
ジェリーは積極的にライバルたちを蹴落としていった。

1978年3月、ミックとの結婚の対面を保つのは無理だという結論に達したビアンカは、財産の保護に乗り出した。

1978年のツアーが始まる前、体調が悪かったレス・ペリンを切り、古い知り合いのキース・オルサムをストーンズの広報係にした。
みんなから尊敬されてきたレス・ペリンを何らかの形で関わらせたらどうかというオルサムの提案をミックは断った。

オルサムは言う。
「ミックは血も涙もない人間だ。忠誠心もない。みんな彼に近付いては離れたり、やられたりだ。だが個人的なことには臆病なんだ。だれかをクビにするときには人にやらせるんだ」

ツアーが始まって数週間が経った頃、ミックは生活保護を受けていたマーシャ・ハントに月額2190ドルの養育費を払うよう告訴された。

ミッチェルソン弁護士は、プロモーターがアナハイムでの2回のコンサートのギャラをミックに払うのを禁じる裁判所命令を取り付けた。

ミックは要求をのんだが、マーシャをののしった。
「あいつは詐欺師だ、自己宣伝しか頭にないんだよ。まぬけで、仕事につこうともしない……ぶらぶらするのが好きなビッチだ」

1978年後半、22歳の黒髪の女性がミックのグルーピーに加わった。ミックは何度か彼女を連れて部屋に行った。

ミックの力を借りて世の中に出て行こうとしていたその女性は、マドンナだった。

1979年、ミックとビアンカの離婚が成立した。

1980年6月、2年ぶりのアルバム「エモーショナル・レスキュー」は、ストーンズの80年代の最初のヒット・アルバムとなった。
だが初期の頃の荒々しさに欠けていると、ミックは満足していなかった。

1980年12月8日、ミックの隣人であり友人でもあるジョン・レノンが狂気のファンに射殺された。

1981年、ミックとキースがダートフォードの駅で出会ってから20年後のツアーが始まる際、ミックはオジサンに見えないようにと体を鍛えた。

その合間に、セットのデザイン、衣装、宣伝、費用などを検討した。

「だれも指一本動かそうとしない」と彼はこぼした。

キースは移動クレーン車に乗って登場するプランを土壇場で知らされると、ツアーをサーカスの出し物にするつもりかとミックを非難した。

1982年のヨーロッパ・ツアー中に、ミックとキースの溝はますます深まった。

キースが特に気に入っていた初期の曲「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」の演奏中、ミックは大げさにふざけてみせた。

「ミックはチャーミングでかわいくて優しい男にもなれるの、そうかと思えば、横柄で意地悪で口汚くののしったりするのよ」
とリズ・デレンジャーはミックの感情の起伏の激しさを指摘する。

ジェリー・ホールも彼の陰険ないじめに耐えてきた。

ミックの長女(マーシャ・ハントとの子供)カリスの12歳の誕生日に、ミックから電話があった。

ミックがカリスの人生にかかわりたいと願っていることがわかって、マーシャは”飛び上がって歓声をあげたいほど”喜んだ。

1983年7月26日のミックの40歳の誕生日からまもなくして、ジェリーは妊娠していることがわかった。

そして1984年3月2日、ニューヨークのレノックス・ヒル病院で女児を出産する。子供は”エリザベス・スカーレット”と名づけられた。

ポール・マッカートニーと組んで既に「ザ・ガール・イズ・マイン」「セイ・セイ・セイ」の2曲をヒットさせていたマイケル・ジャクソンがミックに一緒にやらないかと頼んできた。

しかし「ステイト・オブ・ショック」をレコーディングした後、ミックはマイケルのことを「女々しく退屈な奴」だと思い、マイケルはミックのオフ・キーな歌い方について不満を洩らした。

ミックはソロ・アルバム制作に戻り、ストーンズの他のメンバーは、ミックが相談もなく自分だけの企画に半年も費やすことに激怒した。

キースはミックからの電話を何週間も無視し、1984年7月にはビルが公然と反抗ののろしをあげた。

1970年代以前のことをほとんど思い出せなかったミックは、ずっと日記をつけていたビルに助けを求めた。

ビルは、
「うるさい。おまえがほんとに知りたいんなら、おれの本が出るのを待ってるんだな」
と答えた。

2週間後にロンドンのセント・メリー・アボット教会で行われたエリザベス・スカーレットの洗礼式に、メンバーで出席したのはチャーリーだけだった。

ストーンズの問題点を徹底的に話し合うためにアムステルダムに集まったとき、ミックは最後の味方、チャーリーまでも失った。

深夜まで飲み、ホテルに戻った後、チャーリーを電話で起こした。

「おれのドラマーかい? ちょっとこっちに来てくれないか」
とミックは命令口調で言い、チャーリーはスーツとタイをつけ、命じられたとおりに下に行き、ミックに左フックを見舞った。

「二度とおれのドラマーだなんて呼ぶなよ。おまえはおれのくそったれシンガーだ」

ロン・ウッドはミックと直接に対決せずに自分の気持ちを表明した。

自分の結婚式に、ミックをのぞいたストーンズのメンバーを招待したのだ。

1985年3月にソロ・アルバム「シー・ザ・ボス」がリリースされ、100万枚の大台にのった。

シングル・カットされた「ジャスト・アナザー・ナイト」は12位まで上がった。

1985年8月28日、ジェリーは”ジェームズ・リロイ・オーガスティン・ジャガー”を出産した。

「娘たちは愛しているが、初めての息子とは比べられないよ」
とミックは言った。

ミックがソロ活動に忙しかったため、キースはストーンズのまとめ役イアン・スチュワートに頼りきりだった。

スチュはキースに会うため、ロンドンのスタジオに向かう途中で、ウェスト・ロンドンの病院に寄って呼吸困難を訴えた。待合室に座っている間に彼は心臓発作で倒れた。47歳だった。

ストーンズ全員が、その死にショックを受けた。

ビルは「彼と一緒におれたちの良心も死んだ」と言った。

スチュの葬儀にはストーンズ全員が出席し、キースはロン・ウッドに向かって呟いた。「これからはだれがおれたちに注意してくれるんだ?」

ミックが別のバンドを連れてソロ・ツアーを計画しているという噂についてキースは、
「もしミックがこのバンド抜きでツアーに出たら、やつの喉をかき切ってやる」と言った。

1987年初めには、ミックは第二弾ソロ・アルバム「プリミティヴ・クール」のレコーディングに取り組んだ。

ミックは「この5年、ストーンズはうまくいっていなかった。だから、おれはこのバンドをなんとかまとめようとがんばったんだ。でももうこれまでだね。これ以上は我慢できないし、まとめ役にもうんざりだよ」と言った。

しかしミックのアルバム「プリミティヴ・クール」は完全な失敗作とみなされた。

ストーンズのなかで歳相応に見えないのはミックだけだ――少なくとも首から下は。ほかのメンバーは猫背になったり皺がよったり、骨ばったり白髪だらけだった。「あいつらとステージはやれない」彼は言った。「みんな恩給生活者みたいじゃないか。おいぼれじじいの集団はいらないよ」

日本人のファンはストーンズの来日を4分の1世紀も待っていたが、1988年3月、ミックが8回のソロ・コンサートを開くために来日したことで埋め合わされた。

17万人以上のファンの前で、ミックはソロ・ナンバーを3曲カットし、ストーンズのクラシック「アンダー・マイ・サム」「ホンキー・トンク・ウィメン」「悪魔を憐れむ歌」「サティスファクション」をやった。

ミックの日本公演ギャラの総額は800万ドル、1回につき100万ドルだった。その数字は、アメリカ・ツアーの前売り額が予想外に低くて直前に取り消さざるを得なかった失意を十二分に補った。

1989年1月18日、ストーンズがロックンロール・ホール・オブ・フェイムに加えられることが正式に発表された。

ミックとキースは決着をつけるため、バルバドスで会うことにした。

会ってから数分もたたないうちに彼らは互いに怒鳴りあったが、その日が終わる頃にはジャック・ダニエルを飲みながらジョイントをまわし笑いあっていた。

ブライアン・ジョーンズの死から20年近くたった記念に、彼らは何か特別なことをしたいと考えた。「コンチネンタル・ドリフト」という曲をつくるために彼らはモロッコに飛び、60年代にブライアンと一緒にレコーディングしたジャジュカのパイプ・ミュージシャンに協力を頼んだ。「スティール・ホイールズ」の制作は最初から最後までわずか10週間しかかからなかった。

1989年8月31日にリリースされたアルバム「スティール・ホイールズ」はただちに第3位に上がり、ほぼ半年間チャートにとどまった。

今までで最大の規模である「スティール・ホイールズ」ツアーが大陸を転がり始めた。

商業的、美的、批評の点でこのツアーはストーンズにとって、まぎれもない勝利となった。

アルバム「スティール・ホイールズ」はダブル・プラチナ(200万枚)となり、『ローリング・ストーン』の批評家と読者はストーンズを”アーティスト・オブ・ザ・イヤー”に推挙した。同誌はまた「サティスファクション」をベスト・ロック・レコードに認定した。

1990年11月21日、ミックとジェリーはヒンズー教の儀式にのっとって結婚式を挙げた。

しかしその数日後、司式をしたヒンズー教の僧侶は二人がヒンズー教に改宗する可能性がないとして、結婚を取り消した。

結婚が正式なものかどうか疑問の余地があるとしても、ジェリーはそれを無視した。

ミックの周りには死がつきまとっていた。

ブライアン・ジョーンズ、イアン・スチュアート、グラム・パーソンズ、キース・ムーン、マイケル・クーパー、タラ・ブラウン、タラ・リチャーズ(キースの息子)、アンディ・ウォーホル、メレディス・ハンターとオルタモントの犠牲者たち、エリック・クラプトンの4歳の息子、コナー、昔なじみのプロモーター、ビル・グレアム……、
それでもミックは持ちこたえた。

これみよがしで意気揚々とした、ときには不吉な匂いをまきちらすこのピエロ王子は、不穏な60年代から逸楽の70年代、堕落の80年代から用心深い90年代にいたる40年間ロック界に君臨している。
ミック・ジャガーの人生は、一つの世代の歴史だ。エルビスとジョン・レノンがいなくなった今、彼はロックの巨人の最後のひとりとなった。プレスリー、レノンが生きていたときでさえ――彼らの才能をもってしても――ジャガーのパフォーマーとしての抗しがたい魅力には対抗できなかっただろう。

――以上、簡潔にまとめるつもりが、やはり長くなってしまいました……;

この本は1993年発行なので、それまでのことしか書かれていません。

ミックの素行には問題があるところもありますが、私はむしろ、ミックのこういう面を知ってホッとしました。

ミックも人間なんだなあ、って。

だってビジネス面でも完璧、表の顔も裏方の細かい仕事も一人でこなして、それで冷静にいい人で日々送ってる、なんていうほうが異常ではないですか?

感情をぶつけられる人たちは大変だと思いますが(特にマーシャ・ハントに対する態度は酷すぎです。ビアンカとの仲を守りたかったための態度だったのかもしれませんが)、このストレスを誰にもぶつけず一人で処理するとなると、それこそドラッグのやり過ぎのための死を迎えるようなことになってしまうと思うのです。

細かいことに気を配る一方で、どこか神経が抜けてるような異常なキャラになっていないと、やってこられなかったのでしょうね。

しかしこれだけグループのまとめ役として奮闘していても、メンバーから敵意をもたれてしまうっていうのは……、いかにバンドのまとめ役というのが難しいかということです。

ミックがいなければ、とっくにストーンズはなくなっていたでしょうね。

上流社会に憧れ、華やかな雰囲気が好きで、常に注目されていたいという部分は実際にもっているのでしょうが、計算高く中性的で冷血人間、というイメージは半分は本当、半分は彼自身が作り上げているイメージだと思います。

この本でジャジューカのミュージシャンが参加している「コンチネンタル・ドリフト」のことを知り、早速「スティール・ホイールズ」を買いました。

70年以降のストーンズのアルバムはほとんど持っていないのですが、このアルバムはいいですね。なんか60年代とはイメージが違いますが。

特に「コンチネンタル・ドリフト」はカッコいいです!

こんなところにも、ストーンズの中にブライアンが生きている!

さて、思いがけなく、というか、思ったとおりというか、ここまででかなり長文になってしまったので、また後日に続けます。

このブログの最終目的であった私が思ったブライアンとミックの関係、その確執の本質について、(とんだ思い違いかもしれないけれど)書いてみたいと思います。

次回で、このシリーズ?、やっとラストです。ふぅ。

コメント

  1. アラン より:

    ふぅ、息つく暇も無く読みました。
    次回はいよいよラストですか。
    楽しみでもあり、残念なようでもあり。
    それにしても、マリアンヌや、ミック・テイラー、その他、
    とてもたくさんの人たちが傷ついて、たくさんの犠牲の上にローリングストーンズという怪物バンドが成立していたんですね。
    もしかしたら、ある意味、ジャガーも犠牲者の一人なのかな、
    なんてことを思いました。
    強烈な光には、それだけ濃い影がつきまとうものですが、
    ジャガーはまるで影を失ってしまったかのように思えます。
    それ(影)はブライアンだったのかも?
    とんだ思い違いかもしれませんが(笑)
    ああ、そういえば、影を失った男が、自分の影に殺される話がありましたっけ。題名は思い出せません。

  2. るか。 より:

    アランさん、長文にも関わらず読んでくださって、ありがとうございます。
    ブライアンとミックの関係は、ホントに理解しがたくて、考えながら書いていたら、part11まできてしまいました^^;
    そうですね、ストーンズは大きな犠牲の上に成り立っているバンドといえると思います。
    紛れもなく世界的に有名なバンドですが、得るものが大きい分、失うものも大きいのでしょうね。
    それでも恨まれるばかりでなく、多くの人々から愛されてるっていうのが、本当に、もうすごいです。
    (あ、多くの人々から愛されるために、多くのものを犠牲にしてきたといえるのかも。・・複雑。)
    影に殺される話って、スティーヴン・キングっぽいイメージですが、全然違ったりして。(汗)

  3. ホワイトアルバム」 より:

    伊豆高原のビートルズ博物図館のスタジオには キースにかつて いただいたピックが 置いてあります!

  4. るか。 より:

    ホワイトアルバムさん、ありがとうございます。
    近くに行ったら、寄りたいです[E:note]

  5. mimi より:

    面白いです☆昔読んだストーンズの「悪魔を憐れむ歌」という暴露本を思い出しました。
    ところで、1つだけ反論が。。ジミー・ペイジの「恋人」パメラとありますが、よく調べるとこれはパメラ・デバレスが自分の本の中で一方的にジミーの彼女だったとアピールしてるだけで、実際は単なるツェッペリンのグルーピーの1人だったらしいですよ。ジミーはパメラを「頭空っぽのまぬけ女」(bimbo)なんて言ってるし、まさかちゃんとした恋人だった女性をこのようには呼ばないでしょう?ジミーさんは自分と家庭を持った女性には後々まで優しいけど、グルーピーなどには悪魔のごとく冷酷な人のようです(~_~;

  6. るか。 より:

    mimiさん、ご指摘ありがとうございます!
    早速、その部分を削除しておきました。
    確かに彼女の本を読むと、恋人だったというふうにとれてしまいます。
    単なるグルーピーの一人だったとは……。
    でも、このくらい思い込みが激しいほうが幸せなのかもしれませんね^^;